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童謡、民謡、そして昭和歌謡への流れ(15) 野口雨情と坪内逍遥

しばらく連載が途絶えておりました。おもひでチューズデーの活動も活発になって参りましたのと、もりちゃんも労働者の身で、仕事も忙しくて、執筆の時間が確保できなかったのであります。昭和歌謡のファンの皆様、お許しくだされ!


さてさて、野口雨情さんのお話であります。
雨情さんは、数学院中学から編入した順天堂中学を明治34年(1901)3月に卒業し、4月に東京専門学校高等予科文学科(現早稲田大学文学部)に入学しています。ところが、翌年の5月7日に早くも退学しておられますな。何が面白くなかったのでしょうか?何を期待していたのでありましょうか?


雨情青年は、この頃には投稿雑誌「文庫」(山県悌三郎主幹)に俳句を投じたり、自然や風土に包まれた地方の生活や民衆の感情を謡った詩(民謡体)を作り始めていたそうですな。


東京専門学校といえば、かの「小説神髄」(明治18年・1885に発表)で有名な坪内逍遥大先生(1859-1935)がおられました。坪内逍遥大先生は、東京専門学校に、文学科を創設した人でありまして、明治24年(1891)10月に「早稲田文学」を創刊して主宰し、明治27年(1894)にシェイクスピア劇と近松の浄瑠璃・歌舞伎をミックスして豊臣から徳川への政権交代を描いた「桐一葉」(きりひとは)を発表して劇作家としても活躍し、本当に偉い大先生になっておられたのであります。雨情さんが入学した当時には、坪内大先生は、早稲田中学の創立に参与し教頭となり、実践倫理教育に注力され、尋常小学校・高等小学校用の「国語読本」を編纂しておられます。


雨情青年は、詩や俳句も文学の一つのジャンルであるということから、そして坪内大先生がいらっしゃり、文学を学ぶならということから、おそらく東京専門学校に入ったに違いない。雨情さんが受講した東京専門学校文学科の授業は、どんな授業だったのでしょう?坪内大先生の授業はなかったのでしょうか?


いずれにせよ、自主的に退学したのは、自然や風土に包まれた世界を詩や俳句にしたいという気持ちでいっぱいの雨情さんにとっては期待はずれだったのですかな?雨情さんは、中退したその月に、「村の平和」「茄子の花」という題の2編の詩を、雑誌「労働世界」(明治30年創刊の雑誌・片山潜主筆)に、はじめて野口雨情の名で発表しています。


この続きは、次回に!



投稿者 tuesday : 2006年10月28日


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