与謝野晶子さんは、明治37年1月に「みだれ髪」の補遺として歌集「小扇」を発表したのに続いて、9月に日露戦争の旅順攻撃に参加した弟の無事を祈った反戦詩で有名な「君死にたまふこと勿れ」を雑誌「明星」に載せて、これまた物議を醸してかなり話題となっておりました。雨情さんは、その頃まさに葛藤している最中でありました。
一方、旦那の鉄幹さんも、明治33年(1900)4月に雑誌「明星」を創刊し、浪漫主義文学運動を展開し、明治34年秋に鳳(旧姓)晶子さんと激しい恋をして結婚しておりました。そして、この明治37年5月には「毒草」という詩歌文集を出版して、夫婦ともに世を騒がせて大活躍しておりました。
また、島崎藤村さん(1872-1943)も、「詩歌は静かなるところにて想ひ起こしたる感動なりとかや」と書いた「藤村詩集」をこの明治37年9月に発表しておりまして、こういう新しい詩人や歌人たちの活躍ぶりを見て、さぞかし雨情さんは、北茨城の磯原に引っ込んで借財の整理に奔走している自分を歯痒く思ったに違いありません。
そこで、負けてられない雨情さん、翌年の38年3月に処女詩集「枯草」を自費出版しています。雨情さんの逸(はや)る気持ちが分かりますな。
今日はこれまで、次回を乞うご期待!
投稿者 tuesday : 2006年11月04日 |