古賀政男から美空ひばりまで昭和歌謡の名曲を慰問演奏。音楽ボランティアグループ“おもひでチューズデー”


































メンバーズブログTOPへ > morichan > 童謡、民謡、そして昭和歌謡への流れ(21) 乃木大将


童謡、民謡、そして昭和歌謡への流れ(21) 乃木大将

野口雨情さんが、詩作に没頭できずに、亡き父が残した借財の整理に奔走している頃、日露戦争が終結しました。これから、日露戦争を境目として、雨情さんの後半生について語っていくことにします。雨情物語の第二部でございます。


その前に、ちょっと、乃木大将と東郷大将について触れます。「あれれっ?」二人は明治を代表する偉人で神に崇め奉られ神社(乃木神社・東郷神社)も建立されていますが、この二人は昭和の戦前時代に精神的な影響を与えていたのですな。「おいおい、もりちゃん?」昭和歌謡を語るにはこの二人について触れておく必要があるのです。「もりちゃん、本当に昭和歌謡と関係あるの?」まあまあ、お聴きくだされ!


乃木さんは、西南の役に連隊長心得として参加したが薩摩軍に連隊旗を奪われたり、台湾総督になった時は統治失敗の責任を取って辞職したり、旅順の攻撃でも203高地で苦戦を強いられたり、司馬遼太郎さんが「坂の上の雲」でも指摘していたように、優れた軍事戦略的な能力はなかったのではないか、といわれていますが、人格者であったようですな。


旅順で戦いに勝った後で所謂「水師営の会見」が行われ、ロシアの将軍ステッセルに対して帯剣を許すなど武人としての名誉を傷つけることなく紳士的な応対をして、外国の記者たちに感心されたようですな。そういうこともあってか、学習院院長として昭和天皇や皇族の子弟の教育に従事し、教育者としても多くの人から慕われた乃木さんでありました。


夏目漱石の小説「心」にも象徴的に扱われたように、明治天皇の大葬の行われた夜に妻とともに殉死したのは、あまりにも衝撃的であります。遺書には、西南の役で連隊旗を奪われたことの陛下へのお詫びが書かれていました。連隊旗を奪われた恥をずっと引き摺って生きていた人間だったようで、乃木さんのステッセル将軍への対応でも分かるように、自分で恥をよく知っているからこそ人に恥をかかせないように気を遣う本当に人の心が分かる良い人であったように、もりちゃんは思います。


乃木大将のお話は、次回も続きます。お楽しみに!



投稿者 tuesday : 2006年11月26日


トラックバック


このエントリーのトラックバックURL:
http://www.kayou.org/cgi/mt/mt-tb.cgi/164

★【 熱意ブログランキング 】★12 NPO・ボランティア にほんブログ村 音楽ブログへ ブログランキング

BS blog Ranking  【ブログ探検隊】人気ランキング