司馬遼太郎さんは、戦争の悲惨さと戦争を起こす人間の愚かさを、ノモンハン事件を題材に小説を書こうとして、この戦いに関する膨大な資料を集めていたと言われております。しかし、小説「ノモンハン事件」を描くことはできなかったのであります。司馬さんの小説には必ずヒーローがいるのですが、ノモンハン事件にはヒーローはいなかったからというのが理由らしいのですな。司馬さんがずっとノモンハン事件を描きたいと言っていたことを知っていた文藝春秋の編集者であった半藤一利さんが、司馬さんの没後に「ノモンハン事件」を描いておられます。
最近、旧ソ連の当時の文書が発見され、1万8000名の戦死者を出した日本軍よりも、実はソ連・外蒙軍の方が多くの戦死者・戦傷者を出していたという事実が明らかにされております。あまりにも凄まじい戦闘だったのですな。相手も大変だったのでありますな。司馬さんは、このことをご存知でなかったのではないかと思います。
日本軍はこれだけ夥しい戦死者を出したので負け戦(いくさ)だと思ったようですな。天皇陛下に許可なく勝手に始めた「統帥権干犯」の戦いであり、戦局が怪しくなってきたため、日本としてはこの戦いを早く終わらせたいと考えていたところ、戦いの最中の昭和14年8月23日にソ連はドイツと独ソ不可侵条約を結びますが、ヒトラーのドイツは9月1日にポーランドへ侵攻したんですな。ソ連としては、びっくりで、ノモンハンでの日本との戦いよりも、モスクワに近いドイツの動きに神経を尖らせていたようですな。ソ連の方から、停戦を言い出し、戦いは終わりました。日本はホッと胸を撫で下ろしたのであります。
国境線については、ソ連側の主張どおり日本は引き下がってしまいました。これは、日本が勝手に負けたと思っていたからであります!ソ連は日本よりも多くの戦死者を出していたにもかかわらず、自分が勝ったかのような顔をしたことよって、ノモンハン事件はソ連が勝ったとされてきました。ありゃまあですな!ソ連の方が役者が上だったのでありますな。
この続きは、次回に!
投稿者 tuesday : 2007年01月06日 |