その後の軍縮会議は、昭和2年(1927)6月にジュネーブで補助艦の保有制限をはかるために開催されましたが、イタリアとフランスが参加せず、アメリカとイギリスの意見も合わず、何も決まらずに終わりました。
昭和3年(1928)8月には、パリで主要15カ国が集まり、不戦条約が締結されていますな。日本は国内に反対意見が多かったのでありますが、批准しています。世界は第一次大戦の後遺症があったのでありましょうか、軍縮・不戦の方向に向かっていたのですが、日本は中国進出への野望を持っていたようでありますな。
昭和5年(1930)1月には、ジュネーブ軍縮会議のやり直しということで、ロンドンで補助艦の保有制限の軍縮会議が開催され、ここでもイタリアとフランスが参加しなかったのですが、アメリカ・イギリス・日本の3カ国で協議しました。これが所謂「ロンドン海軍軍縮会議」でありますな。
日本は、対アメリカ7割を主張したのですが、協議の結果、大型巡洋艦では対アメリカ6割、駆逐艦・潜水艦では6.97割となり、特に潜水艦は現有量を割ってしまったのであります。浜口雄幸内閣は、当時の時代の流れでグローバルスタンダードとなっていた金解禁、緊縮財政、そして国際協調から、この条件で妥協して批准したものですから、日本国内では政治的相克が生じ大騒ぎとなったのであります。
もりちゃんの世界史の授業は次回も続きます!
投稿者 tuesday : 2007年01月28日 |