さてさて、野口雨情さんのお話であります。雨情さんが明治38年(1905)3月に「枯草」という個人創作民謡集を自費出版したというお話をしてから、話が横道に逸れたのでありましたな。この頃はまだ創作民謡が確立されていない時で、雨情さんは北茨城の磯原という地方で父の残した借財の整理に奔走しながら創作民謡の先駆的な動きをしていたのであります。「枯草」は日本ではじめての創作民謡集と言われています。
中央の詩壇では、何と言っても西洋の詩歌の形式と精神を真似た「新体詩」(つまり今の普通の「詩」で「漢詩」対する名称)が流行しつつあり、与謝野鉄幹、島崎藤村、土井晩翠や蒲原有明などが活躍しており、「枯草」は一部の雑誌で紹介されたものの雨情さんの民謡創作には殆どの人が目を向けてくれなかったのであります。きっと、雨情さんは新体詩の詩人たちに対抗して「枯草」を出したのだと思いますが、その意欲も空しく、反響はありませんでした。
その頃は、夏目漱石が「吾輩は猫である」をホトトギスに連載を始め、近代小説の新たなうねりが起ころうとしておりましたし、また上田敏が翻訳詩集「海潮音」を出版し、ロマンティックで感傷的な心情の表現ではなく、象徴的な暗示手法による複雑で繊細な心情の表現を紹介し、当時の詩壇にあった新体詩風を一変させるほど甚大な影響を与えたと言われています。雨情さんは、自分が生活の中において心に感じる自然風土の情景や民衆の想いを何とかしてうまく謳いたい衝動に益々駆られていたに違いありません。
その年の11月に、東京で中学の時から面倒を見てもらい大変世話になった伯父の野口勝一が亡くなっています。大きな精神的な支えが消えてしまったわけですな。「どうすりゃ、いいっぺ?」雨情さんの声が聴こえてきそうですな。
投稿者 tuesday : 2007年02月12日 |