西条八十が野口雨情を詩人としてあこがれていたのと同様に、野口雨情は乃木大将にあこがれていたようであります。八十少年が雨情さんの家を訪ねたのと同様に、雨情さんも乃木大将の家を訪ねたことがあるのです。もりちゃんが、乃木大将の話を何度もしてきましたが、雨情さんが乃木さんに会いに行ったお話をしたかったからなのです。
雨情さんが乃木大将といつ会ったのか、もりちゃんは調べました。昭和の初期に、雨情さんは自分の弟子に「東京専門学校に入った頃(雨情さんが二十歳の頃)に、わすは乃木希典閣下に何とかして会いたいと思い、会いに行きやんした」と語っておられるのですが、もりちゃんはちょっと疑問を抱いています。
雨情さんが東京専門学校に通っている頃というのは、明治34年(1901年)~明治35年(1902年)であります。この頃の乃木大将は、何をしておられたか、東京におられたのか、まだ無名の雨情さんが突然訪問して会ってくれるような状態だったのか?この頃とは、もちろん日露戦争前であります。
乃木大将は、日清戦争後、明治28年(1895年)陸軍中将になり、男爵を授かり、明治29年に台湾総督となって台湾に赴任しました。蒸し暑い台湾に病弱な母を連れて行き、台北で母を亡くしまう。自分も体調を崩し、日本に戻り、明治31年(1898年)に四国高松の善通寺にある第11師団長となりました。その後、明治34年(1901年)5月に休職して、栃木県西那須野にて晴耕雨読の生活をしておられたようです。雨情さんの東京専門学校時代には、乃木大将は東京におられなかったのであります。それとこの頃の乃木さんは、それほど有名ではなかった。何といっても乃木さんは、日露戦争で一躍名を轟かせたのであります。
もりちゃんは、雨情さんが乃木大将に会いに行ったのは、「朝花夜花」の詩作に情熱を傾けていた頃、つまり明治39年(1906年)頃ではないか、という説を立てています。と言っても、この件を誰も問題にしていませんが、でも興味あるテーマでありますまいか。では、どちらか?
日露戦争で日本が手に入れた樺太まで行き、国境線まで放浪し、精神的に何かを掴んで帰ってきた雨情さんは必死なって詩作に情熱を傾けていました。二人の息子を亡くし、心では悲しい辛い思いを抱いていたにもかかわらず、国民的英雄になった乃木大将。雨情さんは、乃木さんに強い精神力を見る一方で、「爾霊山」の詩に感受性の豊かな詩人としての面を理解していたのではないか?だから、乃木さんに会いたかったのではないか?あくまでも、もりちゃんの推測であります。
余談ですが、もりちゃんも、あこがれの人がいます。西条八十さんよろしく中学生の頃からあこがれている人がいます。そして、おもひでチューズデーの音楽ボランティアを始めたことがきっかけになって、昨年の9月に、なんと40年の歳月の後に、そのあこがれの人に会い、お話をすることができました。その人とは、古賀政男の弟子で、レキントギターの名手で、「小樽のひとよ」「二人の世界」等のムード歌謡の作曲者で、東京ロマンチカのリーダー、と言えば、その人は、鶴岡雅義さんです。ずっと、あこがれていれば、その人に会えるのですね。鶴岡雅義さんは、73歳(昭和8年9月2日生まれ)で現在も「ムード歌謡コーラス 夢の競演」のコンサートをマヒナスターズ、ロスインディオス、ロスプリモスと一緒に精力的に展開されています。もりちゃんも、追っかけで、コンサートに足を運んでいます。鶴岡さん、頑張ってください!
投稿者 tuesday : 2007年04月22日 |