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童謡、民謡、そして昭和歌謡への流れ(65) 野口雨情、「恋の町札幌」に着く!

雨情さんは、青森、函館を経由して、ついに札幌に到着します。東京上野から四十数時間かかって漸く着いたのあります。もりちゃんがこの原稿を書いている今から100年前の丁度7月下旬であります。ホンマに偶然でありますな。


その頃の札幌とは、どんな様子だったのでしょうな?町はもう既に碁盤の目のように区画されていたようであります。あの有名な時計台は、明治11年(1878年)に「青年よ!大志を抱け!」のあのクラーク先生で有名な札幌農学校(北海道大学の前身)の演武場として、クラーク先生の後を継いで教頭になったホイラー先生の構想によって建てられたもので、雨情さんが着いた時には既に建っておりました。しかし、札幌農学校は、明治36年(1903年)にJR札幌駅の向こう側に引っ越しをしていましたから、時計台は札幌市のものになっていたようであります。


当時の札幌の様子を雨情さんは、こう語っておられます。
「わすの札幌での住めえは、山華氏に紹介しでもらった花屋という下宿屋で、大通に面したどごろにあったでやんす。その頃は路面電車も走っていなぐで、大通というのは、開拓当時に火防のために造られだ防火線であって、草原みだぐ札幌の町の東西に長く続いていて、この草原を挟んで両側に道路があって、この道路に面したどごろを判り易いように大通と言ってる。札幌のうぢでも大通は淋しい方であったでやんす。明治の初めに、北海道最初の開拓使永山将軍が、将来の札幌を見越しで、大陸的に道路は広くしで、市街の区画割も思い切って贅沢に定めだのなんだど。わすの居た花屋は、部屋数が、五部屋くれえのバラック式の平屋で随分とみすぼらしい下宿屋であったでやんす。そんでも下宿人は満員で、みんなおどなしい人ばがしで、高声ひどづ立てるもんはいねかったでやんす」


雨情さんは、現在の「大通公園」周辺のことを説明しています。大通公園は、札幌の街を東西に長さ約1.2キロメートル、幅65メートル、道路を入れれば、105メートルの幅で、走っています。雨情さんが言うように、大火から守るために設けられたものだそうですが、北側を「官地」、南側を「民地」と分けて、官公庁区域と商業区域とを分ける意味もあったようですな。歌謡曲ファンや男性の皆さんにお馴染みの「ススキノ」(薄野)は、南側の民地である商業区域にあり、昔から歓楽街・風俗街であったようであります。


ということもあって「札幌」や「ススキノ」は、歌謡曲の歌詞によく出てきます。特に、演歌やムード歌謡というジャンルです。「♪すすきの町に~♪、♪灯がとも~る♪」の青江三奈さんの「札幌ブルース」(作詞:川内康範、作曲:曽根幸明、編曲:寺岡真三、ビクターレコード、昭和43年)が古いところですかね。「♪ああ♪北の都(まち)札幌の~♪星の下~で~♪」という黒澤明とロス・プリモスの「札幌の星の下で」(作詞:星野哲郎、作曲:中川博之、編曲:井上忠也、クラウンレコード、昭和44年)もありますな。なんと言っても極めつけは「♪時計台の~♪、♪下で逢~って♪」と唄えば思い出す「恋の町札幌」(作詞作曲:浜口庫之介、編曲:小谷充、唄:石原裕次郎、テイチクレコード)ですな。これは、昭和47年(1972年)に発売された曲ですが、この年は、2月3日から冬季オリンピックが札幌で開催され、70メートル級ジャンプで日本が金・銀・銅を獲得したこともあって、札幌ブームが起こりました。懐かしいですな。


話は戻って、そんな札幌の街で、雨情さんは新聞記者を始めるのであります。雨情さんは、この街でいろんな人に出会うのですが、日本近代文学史上、極めて意義深い人と出会うのであります。さて、それは誰でありましょうか?この続きは、次回に!



投稿者 tuesday : 2007年07月22日


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