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童謡、民謡、そして昭和歌謡への流れ(66) 雨情さんを訪ねて来た客人

明治40年(1907年)当時の札幌の町は、人口が7万人程度だったということですが、10年前の明治31年(1898年)には、その半分の3万7千人、さらにその10年前の明治21年(1888年)には、1万5千人と、10年毎に倍増していたのであります。雨情さんのように、内地から一旗揚げようといろんな人々がどんどん札幌に集まって来ていたようでありますな。


そうでありますから、喧嘩や盗みなどの事件が絶えず、相当に治安も悪く、火事が頻繁に起こっていたようであります。雨情さんが札幌に来る2ヶ月程前の5月10日に大火事があったそうで、北海道支庁、警察署、郵便局、銀行、新聞社、商店などが軒並み焼失したようであります。あの大通は防火の役割を果たしたのでありましょうか?


雨情さんは、札幌に着くとすぐ、その大通に面した下宿から北鳴新聞社に勤め始めたのであります。当時の札幌には、「札幌新聞」(明治13年創刊)、「北海タイムス」(明治34年9月、政友会が北海道毎日新聞、北門新聞、北海道時事を合併させる)、「北鳴新聞」(明治34年5月)と「北門新報」(明治34年5月)などがありました。当時はまだ識字率があまり高くなかった頃なので、人口7万人のうち新聞を読める人は多くなく、そんなに新聞が売れたとは思いませんが、土地の権力者や政治家などの勢力の関係もあり、販売部数での競争は激化していたのでありましょうな。新聞記者は販売部数を伸ばすために、責任重大だったと思われます。


雨情さんは、初めて新聞記者の仕事をしたのですが、うまくやり遂げることができたのでありましょうか?雨情さんは、日記を残していないものですから、このあたりのことはよく分かっておりません。
「すぐに馴染めたでやんすよ。札幌は、8月というのに過ごし易ぐ、頗る気分爽快でやんした」
そう言う雨情さんの声が聴こえてきそうですな。


雨情さんが札幌に来て2ヶ月も経たない9月のある朝、それも夜が明けて間もない頃、雨情さんの下宿にある客人が訪ねて来ました。下宿の女中さんが「雨情さん、雨情さん、お客さんだ、お客さんだ」と言って、まだ寝ている雨情さんを揺り起こしたのであります。
「知っている人かい?汚い着物を着た坊さんだよ!」
女中さんは、雨情さんを覗き込み、怪訝な顔をして、そう言うと名刺を枕元に置いて、そそくさと部屋を出て行きました。


さてさて、「汚い着物を着た坊さん」とは、いったい誰でありましょうか?この続きは、次回のお楽しみ!



投稿者 tuesday : 2007年07月29日


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