もりちゃんは、明治における日本近代文学について語っております。「言文一致」の動きから「ロマン主義」「自然主義」への変遷をお話してきましたが、雨情さんが北海道へ行く頃、つまり明治40年(1907年)になりますと、あの夏目漱石先生が学者というよりは小説家としてまさに生計を立てようとしていた時であります。
漱石先生は、明治36年(1903年)に神経衰弱が昂じて2年半に及ぶロンドンの留学から帰ると、東京帝国大学の文科大学講師として「文学論」の講義をしながら、明治37年(1904年)の暮れに「吾輩は猫である」を執筆し、上篇を翌年38年(1905年)1月から5月まで「ホトトギス」に掲載、さらに翌39(1906年)年3月に「坊ちゃん」を発表し、7月には「吾輩は猫である」が完結、9月に「草枕」を発表して、世の中の注目を浴び始めておりました。
そして、漱石先生は、明治40年(1907年)4月に一切の教職を辞し、月棒弐百円で、年2回小説を連載するという条件で朝日新聞社に入社しました。雨情さんが北海道に行くことになった7月には「虞美人草」が朝日新聞に連載されておりました。
漱石先生は、島崎藤村や北村透谷たちの自然主義者が唱える自己の自然的要求を安易に肯定することはしないで、「自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならない」というエゴイズムを超える倫理的な考えに基づく生き方、つまり個人主義を力説しておられます。
「言文一致」「ロマン主義」「自然主義」、そして漱石先生の反自然主義的な「個人主義」の流れは、日本の近代的自我の確立の変遷であります。そして、この流れは、「白樺派」に受け継がれていくのでありますが、果たして日本人は近代的自我を確立したのでありましょうか?
19世紀から20世紀にかけての日本人の自我確立への試みが、21世紀の現在に至っても果たされていないのではないかと、もりちゃんはつくづく思います。こんなに豊かになった日本で、自殺者が9年連続で毎年3万人を超えております。日本の国は経済的には強いのでありますが、日本に住む人々は精神的に弱いのではないでしょうか?日本人の精神的近代化は完成していないのでありますな。
投稿者 tuesday : 2007年06月10日 |