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童謡、民謡、そして昭和歌謡への流れ(88) 雨情さん曰く「啄木さん、そりゃなかっぺ!」(1)

啄木さんについてのお話は、何かしらうら悲しいですな。「はっはっは」と笑う啄木さんの表情の裏に、悲しさや侘しさが見え隠れします。この啄木さんが、数年後に26歳の若さで亡くなったことを思うと、さらにぐっと胸が詰まる思いがしますな。


啄木さんが札幌にいた雨情さんを訪ねてきたお話を綴ってきましたが、これは雨情さんが後年の昭和十三年に「札幌時代の石川啄木」と題して書いた文章をもとに、もりちゃんが脚色して描いたものです。


ところが、啄木さんの残した日記等の資料を読んでいると、この二人の出会いや啄木さんの家族の様子が雨情さんの書いた「札幌時代の石川啄木」とは全然違うのであります。雨情さんが「札幌時代の石川啄木」で書いている「雨情さんの下宿に朝早くから啄木さんが訪ねてきたという事実」は、啄木さんの日記には見当たりません。これは一体どういうことでありましょうや?啄木さんは、恥ずかしくて、自分の日記にも書けなかったのでありましょうか?


啄木さんは、雨情さんとの出会いについて、次のような文章を残しています。
「札幌には新聞が三つ。第一は北海タイムス、第二は北門新報、第三は野口君の居られた北鳴新聞、発行紙数は、タイムスは一万以上、北門は六千、北鳴は八九百(?)という噂であったが、予は北門の校正子として住込んだのだ。当時野口君の新聞は休刊中であった。(この新聞はそのまま休刊が続いて、十二月になって北海道新聞と改題して出たが、間もなく、また休刊。今は出ているかどうか知らぬ。)」(石川啄木『悲しき思出』野口雨情君の北海道時代)


ありゃまぁですな!啄木さんは、雨情さんの勤めていた新聞社のことをボロ糞に言っておられますなぁ!「野口君の新聞は休刊中であった」とか「今は出ているかどうか知らぬ」とか、ひどい言い方ですな。「自分は野口君よりは、立派な新聞社に勤めていたんだ」とでも言いたげな文章でありますな。


「予を北門に世話してくれたのは、同社の硬派記者小国露堂という予と同県の人(中略)。この人が予の入社した五日目に来て、『今度、小樽に新しい新聞ができる。その方へ行く気はないか』と言う。よし行こうという事になって、色々と秘密相談が成り立った。その新聞には野口雨情君も行くのだと小国君が言う。『どんな人だい』と訊くと、『一二度逢ったが、至極(しごく)温和(おとなし)い丁寧な人だ』と言う。予は然し、実のところその言を信じなかった。何故と言うこともないが、予は新体詩を作る人と聞くと、どうやらきっと自分の虫の好かぬ人に違いないというような気がする」


こりゃまた、ありゃまぁですな!


(注)啄木さんの「悲しき思出」(野口雨情君の北海道時代)は、一部現代表記に改めています。



投稿者 tuesday : 2008年02月23日


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