もりちゃんの語る「佐藤千夜子物語」の続きであります。
佐藤千夜子さんのイタリアでの生活は、どうも滅茶苦茶だったようでありまして、あっという間に2000円を使い果たしてしまい、日本領事館に助けを求めたとか。大騒ぎですな。さらには、古賀政男に「リサイタルを開くので、その準備のため2000円ばかり至急ご用立てください」と電報を打って大きな借金をしますな。古賀さんも、よく大金を送金したものですな。千夜子さん、昭和10年に帰国しましたが、古賀さんには何の連絡もしなかったようでありますな。「ありゃ、まぁ」ですな。
千夜子さん、その後はヒット曲もなく、活動と言えば、戦時中の慰問。南方の前線を回っていたようでありますな。トラック島では、連合艦隊司令長官山本五十六の前で「オーソレミオ」を歌ったもののトチッテしまったとか、輸送船に米軍の潜水艦の魚雷が当たり沈没、何日間も海を漂流したとか。まさにドラマですな。
戦後も、ヒット曲には恵まれず、佐藤千夜子の名は忘れ去られ、癌を患い、新宿・大久保の病院に入院。その病院の医者や同室の患者たちも、彼女が「私は歌手なのよ」と言っても、あの佐藤千夜子とは誰も気が付かなかったらしい。昭和43年にひっそりとこの世を去ったという。新聞の訃報記事も、小さく報じられただけだったらしいですな。ああ、聞くも涙、語るも涙の哀しい、哀しいお話ですな。
次回は、佐藤千夜子さんと同様にオペラ歌手を目指した藤原義江さんについてであります。
投稿者 tuesday : 2006年03月19日 |