今年は何と言っても、昭和3年(1928年)に「波浮の港」(作詞:野口雨情、作曲:中山晋平、唄:佐藤千夜子、ビクター)が歌謡曲第1号としてレコード発売されてから80年目に当たる年でありました。
老舗に当たるレコード会社から、「流行歌80周年特別企画 青春歌年鑑」の戦前編4巻(昭和3年~20年)と戦後編6巻(昭和21年~34年)が発売されたことは画期的なことでありました。ビクター、テイチク、ポリドール(現ユニバーサル)、コロムビア、キングの各レコード会社の昭和歌謡への熱い思いが伝わる企画でありました。もりちゃんは、この10巻(CD20枚)の400曲をじっくり聴きました。年表を見ながら昭和の歴史を噛み締めて聴いてみると、とても味わい深いものがあります。惜しむらくは、歌詞カードだけで解説書が付いていなかったのは残念でありましたな。もりちゃんに言っていただければ書いて差し上げたのに・・・・。
そう言えば、今年は、古賀政男と服部良一らが、昭和34年に制定した日本レコード大賞の50周年にあたる年でもありましたな。ジェロの新人賞、おめでとうございます。演歌を若者に広めたいという彼の熱い気持ち、もりちゃんはとてもとても嬉しいです。ジェロには、懐かしい昭和歌謡をリバイバルで沢山唄ってほしいです。頑張ってください。
さてさてこの1年を振り返ってみましょう。
暗い話で恐縮ですが、今年も昭和歌謡に貢献した方が亡くなられました。
年明けに日本のラテン音楽演奏の第一人者であるロスインディオスのチコ本間さんの訃報を聞き、ムード歌謡コーラスの大ファンであるもりちゃんは、もっとロスインディオスのブルー・パシフィックでの毎月のコンサートを聴いておければよかったと悔やみました。5月23日になかのZEROホールで開催された「チコ本間 追悼LIVE」は、ロスインディオス、菅原洋一、桑江知子、阿部幸美、ルシア吉満等の出演による心温まるコンサートで、四十数年前にホテル高輪でロスインディオスや菅原洋一が夜遅くまでLIVEショーをやっていた頃を想い出させる素晴らしいものでした。
フランク永井も長い闘病生活の末、亡くなられました。彼が唄った「有楽町で逢いましょう」は、歌謡曲にムード歌謡のジャンルを確立した名曲第1号と言っていいと思います。関西のそごうデパートが、昭和32年に東京有楽町に進出する際に広告を出し、そのキャッチフレーズが「有楽町で逢いましょう」だった。その広告を見た作詞家の佐伯孝夫(西条八十の弟子)が、この題で歌謡曲にすることを思いつき、レコード化(作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正、編曲:佐野雅美、ビクター)すると、雑誌「平凡」がこの題で宮崎博史による連載小説を開始、映画会社の大映がその小説を映画化(監督:島耕二、主演:野添ひとみ、川口浩)するということで、結果的にすごいタイアップ・キャンペーンとなったのであります。
ちなみに、その有楽町そごうデパートは、昔は、巨人が優勝すると優勝記念バーゲンをやっていたのですが、今は無く(平成十二年に閉店)、ビックカメラになっています・・・・。最近、おもひでチューズデーでは、この曲を演奏するようになりました。編曲したミッチーさんが、「単純な曲なんどけど、すごい名曲」と絶賛しておられます。佐伯孝夫は、三浦洸一が唄うことを想定して詞を書いたらしいのですが、都会の雰囲気を醸し出すためか元ジャズシンガーであったフランク永井を起用したとのことであります。フランク永井は、当初歌謡曲をジャズよりも低いものと思っていたようで、その理由は「ジャズにはスタンダードナンバーがあるが、歌謡曲にはないから」だったようです。彼の歌唱力と元々ジャズが好きだった吉田正によって「有楽町で逢いましょう」は歌謡曲のスタンダードナンバーになりました。
川内康範も亡くなられましたな。「おふくろさん」(作詞:川内康範、作曲:猪俣公章、ビクター)に勝手に詩を付け加えた森進一に対し、唄うことを禁じて騒ぎになりましたが、最近遺族との和解が成立し、森進一は唄えることになり、今日のNHK紅白歌合戦で本当に久し振りに唄います。川内さんは、森進一には他に「花と蝶」(作詞:川内康範、作曲:彩木雅夫、ビクター)を、昔では、松尾和子&和田弘とマヒナスターズの「誰よりも君を愛す」(作詞:川内康範、作曲:吉田正、ビクター)を書いています。この曲は、昭和35年(1960年)第2回日本レコード大賞を受賞しています。
川内さんは団塊の世代ならよく知っているテレビドラマ「月光仮面」の原作者でもありますな。彼の生家が日蓮宗のお寺であり、薬師如来像の脇に立つ月光菩薩像にヒントを得て、正義の味方を主人公とするドラマを書いたと言われていますが、昭和33年から34年にかけて、もりちゃんもテレビに噛り付いていました。
川内さんが作詞したその他の歌謡曲には、城卓矢の唄った「骨まで愛して」(昭和41年、作詞:川内康範・和子、作曲:北原じゅん、東芝EMI)があります。これは和子さんという川内さんの奥さんが書いたものを補作したらしいですな。ちなみに城卓矢は、川内さんの遠縁にあたるとか。
それからビクターレコードが森進一と一緒に「溜息路線」というキャッチフレーズで売り出した青江三奈のデビュー曲「恍惚のブルース」(昭和41年、作詞:川内康範、作曲:浜口庫之助、ビクター)がありますな。青江三奈は、和田弘とマヒナスターズと「愛して愛して愛しちゃったのよ」(昭和40年、作詞・作曲:浜口庫之助、ビクター)でデビューすることになっていたのですが、シャンソン出身の田代美代子にチャンスを取られてしまったとのことですな。銀座や横浜のクラブでジャズを唄っていた青江三奈をスカウトしたのは、川内さんだったとか。ドゥドゥビ、ドゥビドゥビ、ドゥビドゥバの歌詞で有名な「伊勢佐木町ブルース」(昭和43年、作詞:川内康範、作曲:鈴木庸一、ビクター)もありましたな。
川内さんは、昭和34年(1960年)に「黒い花びら」(作詞:永六輔、作曲:中村八大、東芝)で第1回日本レコード大賞を受賞した水原弘が、その浪費と酒によって転落してしまい、カムバックさせるため「君こそわが命」(昭和42年、作詞:川内康範、作曲:猪俣公章、東芝)を書きました。川内さんがこの詞を書いたのは、水原弘の友人であった俳優勝新太郎からの強い依頼があったとのことであります。水原弘はこの曲で昭和42年の日本レコード大賞歌唱賞を受賞しています。
さて、次の方も亡くなりました。その方は、佐伯亮(さえきまこと)という方であります。編曲者でありまして、古賀政男の弟子にあたる方であります。明治大学マンドリン倶楽部出身で、昭和35年(1960年)に大学を卒業して、古賀政男のアシスタントとなったようです。古賀政男の曲の編曲にかけては、この人の右に出る人はいませんでした。美空ひばりが昭和40年に日本レコード大賞を受賞した「柔」(作詞:関沢新一、作曲:古賀政男、コロムビア)や翌年の「悲しい酒」(作詞:石本美由起、作曲:古賀政男、コロムビア)の編曲は彼によるものです。古賀政男とコガ・ギタ-・ロマンティカによるギター演奏の「古賀メロディー」や鶴岡雅義やアントニオ古賀のギター・アルバムの編曲は、実に素晴らしいです。最近では氷川きよしの平成18年第48回日本レコード大賞受賞曲「一剣」(作詞:松井由利夫 作曲:水森英夫、コロムビア)、これも彼の編曲です。コロムビアの専属編曲家であったため、他のレコード会社では馬場良という名で編曲をしておられました。「命くれない」(作詞 吉岡 治、作曲 北原じゅん、唄 瀬川 瑛子)は馬場良という名で編曲している曲の一つですな。
最後に、遠藤実について書きます。とても苦労された方で、戦後の学制改革の時期に家計が貧しく新制中学に行くことができず、中学校も出ておられないようで14歳で日東紡績に就職しておられます。どうしても中学に行きたくて、通信教育の付録に付いていたバッチを工場で支給された帽子に着けていたらしいですな。彼にはずっと学校に憧れていたようであります。だから舟木一夫の「高校三年生」(昭和38年、作詞:丘灯至夫、作曲:遠藤実、コロムビア)、「学園広場」(作詞:関沢新一、作曲:遠藤実、コロムビア)、「仲間たち」(作詞:西沢爽、作曲:遠藤実、コロムビア)、「君たちがいて僕がいた」(作詞:丘灯至夫、作曲:遠藤実、コロムビア)や森昌子の「せんせい」「中学三年生」(作詞:阿久悠、作曲:遠藤実、ミノルフォン)等の青春歌謡・学園ものは、遠藤さんの憧れの結晶というほかないですな。
遠藤さんには内弟子が二人いました。「浪曲子守歌」(昭和38年、作詞・作曲:越純平、クラウン)の一節太郎と「星影のワルツ」(昭和41年、作詞:白鳥園枝、作曲:遠藤実、ミノルフォン)の千昌夫です。その千昌夫が唄った「北国の春」(作詞:いではく、作曲:遠藤実、ミノルフォン)は、中国やモンゴル、果てはトルコやアフリカまで歌い継がれています。これはすごいことで、「上を向いて歩こう」(作詞:永六輔、作曲:中村八大、唄:坂本九、東芝)よりもインターナショナルであり、日本を代表する大衆歌謡であります。遠藤実先生は、中学を出ておられないので音楽学校も出ておられませんが、世界中の人々が口ずさむ歌を作ったとっても偉大な大作曲家です。
数ある遠藤実の名曲の中で、もりちゃんは、小林幸子の「雪椿」(昭和62年、作詞:星野哲郎、作曲:遠藤実、パイオニア)が好きです。新潟の雪深い景色を想いながら、この曲を聴くと涙がちょちょ切れます。新潟出身の小林幸子は、デビュー以降売れなくてドサ周りをして家族で苦労した時代のことを想って唄っています。遠藤実も父親の出身の新潟の国民学校に通っていた時、貧しさといじめから、いつも一人っぽっちで自宅近くの海の見える小高い松林に腰を下ろして青々とした日本海を見つめながら泣いていたそうです。この曲を聴くと、そんな遠藤少年の姿が雪景色とだぶって浮かんできます。
昭和歌謡に多大な貢献をされ、亡くなられた方々に心からご冥福をお祈りいたします。合掌。
投稿者 tuesday : 2008年12月31日 |