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♪閑話休題♪ ムード歌謡コーラス:森聖二さん、浜名ヒロシさんを偲んで!

いやはや、ムード歌謡コーラスのファンにとって、とっても悲しむべきことが立て続けに起こりました!


昭和41年に発売された「ラブユー東京」でムード歌謡コーラスブームの口火を切った黒沢明とロス・プリモスのリード・ボーカル森聖二さんが、先月10月18日(日)午後1時に心不全で亡くなられました。70歳でした。


それから6日後の24日(土)午後1時34分に、ロス・プリモスに続いて昭和42年に「小樽のひとよ」でヒットを飛ばした鶴岡雅義と東京ロマンチカのボーカルの浜名ヒロシさんが、脳内出血で亡くなられました。59歳でした。


森さんの訃報を聞いて、その悲しみが冷めやらぬうちに浜名さんまでもが逝かれるなんて・・・・・。立て続けに、こんなことってあるのでしょうか?ムード歌謡コーラスの大ファンのもりちゃんとしては、にわかに信じ難く、腰が砕けた感じで、この数週間あまり、深い深い悲しみに沈んでおります。


【森聖二さんについて】
もりちゃんが、森聖二さんの歌声を初めて聴いたのは、小学六年生から中学1年生の頃で「ラブユー東京」でありました。「ラブユー東京」は、作詞:上原尚、作曲・編曲:中川博之で、昭和41年4月にクラウンレコードからB面で発売され、ヒットするまで、マネージャーの荻野忠雄氏が毎日朝一番で銀行に行き、持てるだけの十円玉に両替して、飲み屋や食堂で有線放送に電話をしてA面の「涙とともに」(作詞:木村伸、作曲・編曲:中川博之)か、「ラブユー東京」をリクエストし続けました。飲み屋や食堂のお客さんにも十円玉を渡して、リクエストしてもらったらしいです。すると、山梨県甲府市あたりからヒットの兆しがあり、その年の暮頃からレコードが売れ出したといいます。人気があったのはB面の「ラブユー東京」であり、ジワジワと全国にヒットし出して、昭和43年1月からスタートしたオリコンで、実験的チャートを含めると、連続10週第1位となったのであります。


「ラブユー東京」が息の長い大ヒットとなった理由は、何といっても森聖二さんの歌声にあります。裏声を使って、甘くて、粋で、都会的な歌声であり、とにかくあまりにも新鮮で、それまでの歌謡曲での男性歌手にはない、革命的な歌声だったのであります。


続くヒットとなった「雨の銀座」(作詞:富樫政子、作曲:中川博之、編曲:井上忠也、昭和42年11月)も素晴らしく、三重県の田舎で中学生だったもりちゃんは、森さんの歌声から「銀座ってどんな処なんだろう?」とすごく想像し、銀座に憧れました。


前田武彦とコント55号がレギュラーだったフジテレビの「お昼のゴールデンショー」に、昭和43年の初夏の月曜日から金曜日までロス・プリモスが連続出演しました。森聖二さんが白いギターを弾きながら、「たそがれの銀座」(作詞:古木花江、作曲:中川博之、編曲:小杉仁三、昭和43年5月)を唄う姿がカッコよくてカッコよくて、もりちゃんはテレビに釘付けになりました。それ以来、もりちゃんは、ロス・プリモスのレコードを何度も何度も聴いて、森さんの唄い方を学び続けました。もりちゃんは、昔は歌が下手糞でしたが、森さんのおかげである程度うまく唄えるようになりました。でも、森さんの歌唱法とあの素晴らしい歌声は、なかなか真似できないでおります。


森聖二さんは、昭和14年7月7日に大阪に生まれました。父親は陸軍軍楽隊のトローンボーン奏者で、お兄さんはポップスの指揮者森正さん、お姉さんがジャズシンガーの森ヨシ子さんというように音楽一家で育ち、ハワイアンのボーカルからスタートしてジョージ山下とドライボーンズに在籍、それから森ヨシコとそのグループに参加して、昭和40年にラテングループの黒沢明とロス・プリモスに移籍しました。そして翌年に「涙とともに/ラブユー東京」をレコーディングした訳であります。


平成19年から、マヒナスターズ・鶴岡雅義と東京ロマンチカ・ロスインディオス・ロスプリモスの4グループで全国ツアー「今甦るムードコーラス夢の競演」が行われ、ムード歌謡コーラスが再生し、各地で行われるコンサートはいつも中高年で満員で、もりちゃんも何回も足を運びました。森さんの歌声が会場に響くと、会場の拍手が一段と大きくなりました。森さんの歌声に、酔いしれ、痺れた方がどれだけ多くおられることか!特にご婦人方(それも特に銀座のホステスの皆様)は相当猛烈に痺れたでありましょう!


リーダーだった黒沢明さんは、昭和55年7月に帝国ホテルのディナーショーの演奏中に倒れ、長い間療養されていましたが、今年の4月9日に亡くなられました。森さんは、その後を追うように亡くなられたことになります。ご冥福を心からお祈り申し上げます。


【浜名ヒロシさんについて】
浜名さんが、鶴岡雅義と東京ロマンチカに参加されたのは、昭和44年2月発売のA面「君は心の妻だから」のB面「泣いた日もある」(作詞:なかにし礼、作曲:鶴岡雅義、編曲:坂下晃司)からです。浜名さんは昭和25年1月26日生まれで、静岡県浜松市の出身で、浜名湖の浜名を芸名にしたのであります。


浜名さんは、中学三年生の頃(昭和40年当時)、テレビドラマ「七人の刑事」で有名だった芦田伸介の劇を観て役者を志望していました。昭和42年、17歳の時に上京し、叔母さんの家がレコードのクリーナーを造っていたのでアルバイトをしながら、作曲家の村沢良介氏について唄のレッスンを受け、昭和43年に「歌謡界のプリンス」というキャッチフレーズでテイチクレコードから浜名弘として「白百合の君」でデビューしました。昭和44年1月には、橋幸夫の国際劇場でのリサイタルにも出演していました。


浜名さんが東京ロマンチカに加入した理由は、ボーカルが三條正人さんだけでは、公演が大変だからということだと聞いたことがあります。前年の東京ロマンチカは「小樽のひとよ」「旅路のひとよ」が大ヒットして、日本レコード大賞のグループ歌唱賞を受賞しました。ところが、大忙しで、寝る間もなく出演が相次いでいたものですから、三條さんは疲れで体調を崩し、テレビ中継される授賞式に出演できなかったのであります。


「泣いた日もある」はB面でしたが、「小樽のひとよ」シリーズ三部作の第3弾目「星空のひとよ」(作詞:池田充男、作曲・編曲:鶴岡雅義、昭和44年6月発売)はA面で、浜名さんがメインボーカルで堂々と唄い上げています。この時、浜名さんはまだ19歳の若さだったのです。


東京ロマンチカは、昭和43年11月から始まったフジテレビの人気歌番組「夜のヒットスタジオ」(司会:前田武彦、芳村真理、作構成:塚田茂)にレギュラー出演していました。寸劇が歌の途中に入る「歌謡ドラマ」が好評で、浜名さんも鶴岡さんや三條さんたちと劇を演じていました。


昭和48年くらいまでが、東京ロマンチカの全盛期だったでしょうか?昭和49年には、三條さんが香山美子とフジテレビの「ラブラブショー」をきっかけに結婚し、それを機に独立して東京ロマンチカを退団することになりました。浜名さんがメインボーカルとしてロマンチカを引っ張っていくことになったのです。浜名さんがメインボーカルとしての第1弾「ああ北海道には雪がふる」(作詞:山口洋子、作曲:鶴岡雅義、キットレコード、昭和49年9月)はヒットして、新生東京ロマンチカは好スタートを切ったかに見えましたが、その後はヒット曲に恵まれず、独立した三條さんもヒットがなく、昭和53年には、三條さんがロマンチカに戻って来ます。


三條さん復帰後の「北の都の物語」(作詞:阿久悠、作曲:三木たかし、編曲:高田弘、CBSソニー、昭和53年5月)、はヒットし、競作となった「明日からあなたは」(作詞・作曲:石坂まさお、編曲:斉藤恒夫、CBSソニー、昭和54年12月)も三條・浜名のデュオでヒットしました。


ところが、またもや三條さんが独立してしまいます。これは、プロダクション社長とのトラブルが原因だったようです。「鶴岡家は出這入り自由です!」と三條さんがコンサートで面白おかしく言ってますが、その後のロマンチカはヒットに恵まれず、出演の機会も減ったためか、元のメンバーも退団し、メンバーが入れ替えになりました。リードボーカルとして浜名さんは責任も感じたのでしょうか、一時ロマンチカを離れてしまいます。そして、俳優・タレントの山城新伍さん(今年8月12日に逝去)のところへ弟子入りして、演劇の勉強をしたと聞いたことがあります。相当苦労されたようです。


その苦労がよい経験になって、浜名さんはかなり歌唱力がついたと思います。それまでの歌声とそれ以降の歌声が全然違うからです。「僕が出て行っている間に、ヒロシは歌がうまくなりました」と三條さんが最近よくコンサートで言っています。そのとおりだと、もりちゃんは思います。浜名さんの最近の歌声は、演劇の勉強をされたからでしょうか、訴える表現力がありました。


ひとときも忘れないで、ずっと思い続けていると、夢が叶うということを、もりちゃんは数年前に経験しました。偶然、ある人の紹介で、浜名さんとお会いすることができ、何回かお食事をさせていただきました。芸能人とは思えないほど、すごく気さくな方で、威張らず、とてもいい方でした。もりちゃんが「ムード歌謡コーラスの歴史を纏めたいと思っているのですよ」と言うと、浜名さんが「もりちゃん、僕たちのムード歌謡コーラスの歴史を書き留めてくれたら、すごくうれしいよ!」と言ってくださった言葉が耳の中に今でも残っています。もりちゃんは、一生、この言葉は忘れないと思います。もりちゃんは、なんとか頑張って、ムード歌謡コーラスの歴史を書きたいと思います。浜名さんの歴史も、ちゃんとしっかり纏めたいと思います。それにしても、あまりにも若くして急に亡くなられたので、もりちゃんのショックは大きいです。


黒沢明さんと森聖二さん、山城新伍さんと浜名ヒロシさん、森聖二さんと浜名ヒロシさん、何かつながって天国に逝かれたような気がします。浜名さんは森さんの歌まねがお上手でした。歌がうまい方は歌まねもうまいのですね。


森聖二さん、浜名ヒロシさん、本当に素晴らしいムード歌謡コーラスの歌声をありがとう!もりちゃんとムード歌謡コーラスのファンの心に、お二人の歌声はいつも響いていますよ!ムード歌謡コーラスの灯は消えません!本当にいい思い出をありがとうございました。合掌。



投稿者 tuesday : 2009年11月08日


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