啄木さんが札幌を去って東京に向かった後、雨情さんは心中穏やかでなかったのではないかと思われますな。雨情さんだって、北海道での生活を続けたところで、詩作に必要な充分な感性が身に付くという保証はなかったからであります。やはり、雨情さんも東京へ行きたかった。でも、すぐには北海道を去れなかったのであります。
実は、雨情さんは、啄木さんと小樽で再会した一ヶ月ほど前に、不幸な経験をしていたのであります。それはかなりショッキングな経験であったのです。というのは、雨情さんは生まれたばかりの長女を亡くしていたのであります。
「北海道さ来なければ、みどりは死ななぐで済んだがもしんねえ。茨城の磯原であれば、みどりは死なながったがもしんねえ。わすが、わがまま通しで、こんな北の果てで、あでのねえ生活をしでっけどら、みどりを死なせっちまったんではねえが。わすは何のためさ北海道さ来て何をしたどいうのだ?でも、啄木さんみだぐ東京さは行けねえ。みどりを北海道の地に残しで東京にはいけねえなあ・・・」
雨情さんの長女みどりちゃんは、この年(明治41年)の3月に生まれて、わずか7日で死んでしまったのです。昨年、10月に雨情さんの家族が札幌から小樽に引っ越してきた時、雨情さんの奥さんひろさんはつわりで体調が悪く布団袋の上に腰をおろして、指図ばかりして雨情さんをこき使っていた様子を啄木さんは目撃して、「野口君の移転に行きて手伝ふ。野口君の妻君の不躾と同君の不見識に一驚を喫し、愍然の情に不堪」と日記に残していることを以前紹介しましたが(98を参照)、あの時ひろさんのお腹の中にみどりちゃんがいたのであります。そのみどりちゃんが生まれてすぐに亡くなったのであります。
<シャボン玉 飛んだ
屋根まで 飛んだ
屋根まで 飛んで
こわれて 消えた>
雨情さんが、後に作詞した童謡「しゃぼん玉」は、このみどりちゃんのことを詠んだものだと言われています。「しゃぼん玉」は、大正11年(1922年)11月に雑誌「金の塔」に発表されました。曲は、中山晋平です。
<シャボン玉 消えた
飛ばずに 消えた
生まれて すぐに
こわれて 消えた>
まさにこの詩は、みどりちゃんの儚かった命を詠んだと言えますな。雨情さんの心には、北海道での当てのない冴えない生活の中で、しかも生まれたばかりの赤ん坊を亡くしてしまった。おそらくこの事は、雨情さんの心に一生傷として残ったに違いないと思われます。
投稿者 tuesday : 2010年05月23日 |