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童謡、民謡、そして昭和歌謡への流れ(128) 雨情さんの死を悼む!

啄木さんは、明治41年9月19日と20日の日記に、こう書いています。


<小田嶋孤舟君から消息と共に金星会の歌。岩手の秋は深くも漆の葉を染めたさうな。一寸外出して為替二枚受取り、斬髪して帰る。十一時頃堀合由巳君来訪。共に昼食をとり、欠伸を忍ぶ。
<読売新聞で、野口雨情君が札幌で客死した旨を報じた。口語詩人としての君の作物の価値は、僕は知らぬ。然し予は昨年九月札幌で初めて知って以来、共に小樽日報に入り、或る計画を共にした。今年上京の際は、相携へて津軽海峡を渡る筈だったが、予は一人海路から上京したのだ。最後の会合は今年四月十四日午後小樽開運町なる同君の窮居に於てであつた。予は半日この薄命なる人の上を思出して、黯然として黄昏に及んだ。細雨時々来る陰気な日、辺土の秋に斃れた友を思ふことは、何かは知らず胸痛き事だ。故人の事共を書かうと思つたが、頭が重いのでやめて、故人の友なる人見東明といふ人へ追悼の手紙を送った。>(19日)


<人見君から、野口君の事について来書。寝耳に水で、まだ疑はれる点もあり、北海道へ問合中との事。“察するに病死にはあらざるが如く候”と書いてある。そして若し真なりとすれば、“新天地”一号へ附録とし追悼録を載せるから、二十二日までに是非書いてくれと言って来た。追悼会も催したい云々。
<野口君の事は、思出せば思出すほどかなしい人であつた。予自身の北海に於ける閲歴と密接な関係のある人だけに、殊更悲しい。>(20日)


この日記を読むと、啄木さんにとって、雨情さんの死がかなりショッキングであったことは間違いないですな。雨情さんと小樽で別れたのは、あれは5ヶ月前だったのに、訃報が届くなんて・・・。悲しいですなあ。もりちゃんの頭の中に、また昭和歌謡のメロディーが流れてきました。


<♪届いたぁ~♪ 報せは~♪ 黒~い~♪ ふちぃ~どりが~♪ ありましぃ~たぁ~♪
 ♪あれは三年前~♪ 止め~る♪ アナ~タ♪ 駅に残~し~♪
 ♪動き始めた~♪ 汽車~に~♪ ひとり~飛び乗った~♪>


昭和47年の日本レコード大賞に輝いた「喝采」(作詞:吉田旺、作曲:中村泰士、唄:ちあきなおみ、編曲:高田弘、コロムビア、昭和47年9月発売)のメロディーでありますな。ちあきなおみが下積みの頃、下関で橋幸夫ワンマンショーの前座で唄っていた時のこと、ちあきが慕っていた剣友会の青年が実家で亡くなったという訃報を受け取ったという実話をもとにして作られた「私小説歌謡」であります。作曲家の中村泰士が作詞家の吉田旺に、「『黒いふちどり』とか『喪服』とか、歌謡曲に相応しくないと言って、詞を変えさせようとしましたが、吉田は頑として変えようとしなかったという逸話があります。


おっと、話が逸れてしまいましたな。兎に角、雨情さんの訃報は、あまりにも突然であり、啄木さんだけでなく、与謝野鉄幹や晶子夫婦、恩師の坪内逍遥大先生も、雨情さんの人生の儚さを切なく感じていたと思います。早稲田詩社の同人の人たち、相馬御風、三木露風、人見東明の各氏は、早速『早稲田文学』にも「野口雨情追悼号」を出す計画をしていたというし、雨情さんを知っていた友人や知人縁者は皆、新聞を見て、雨情さんの死を心から悼んでいたに違いありません。


「何の因果もない北の地で、何の手柄や名声も上げることなく、呆気なく死んでしまうなんて・・・。北茨城で過ごしていたら、こんなに早く世を去ることもなかったろうに・・・」



投稿者 tuesday : 2010年09月25日


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