古賀政男から美空ひばりまで昭和歌謡の名曲を慰問演奏。音楽ボランティアグループ“おもひでチューズデー”


































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童謡、民謡、そして昭和歌謡への流れ(136) 啄木さんが逝っちまったぁでやんす!(1)

雨情さんが、東京で活躍する当てが無くなり、人生の希望が殆ど見えない冴えない心境で、郷里の北茨城磯原に帰ってから数ヶ月経ち、季節は桜の花の咲く頃になっていました。雨情さんは、春の陽射しを受ける縁側に腰を下ろし、春を感じながら朝刊を読んでおりました。時は明治45年4月14日日曜日の朝のことであります。


「ほう~、12日に函館が、まだ大火に見舞われだのでやんすか!あそごは、何度も燃える町でやんす!わすも、あの啄木さんも、函館の大火から札幌に逃げだんだったなぁ。もう、でえぶ昔のような気がするなあ。そう言えば、啄木さんとは、しばらぐ会ってねえげど、元気にしでんのだっぺがあ。ふむふむ」


雨情さんは、硝子戸越しに当たる春の暖かい陽射しを背にしながら、煙草を口に咥えて、新聞を捲っておりました。煙草の紫煙が陽射しの中でゆっくりと立ち昇っています。のんびりした春のひとときであります。


「ありゃりゃ!え~っ!」


何があったのでしょう?雨情さんは、思わず大声を上げました。煙草が口から落ちました。


「あっちちちっ!」


雨情さんは、足首に落ちた煙草を拾い上げ、灰を払いながら、縁側に広げた新聞紙に目を遣りました。


<石川啄木氏逝く 薄命なる青年詩人 新詩壇の天才として将来に望みを嘱せられたる本社員啄木石川一氏は久しく肺患にて治療中なりしが、十三日午前九時半小石川区久堅町七十四番地六十四号の僑居にて逝去せり。享年二十七>(東京朝日新聞)


雨情さんの肩が揺れています。時が止まったかのような静かな陽射しの空間の中で、雨情さんは自分の高鳴る鼓動を感じていました。前屈みになって背中を丸め、バクバクとする鼓動を抑えようとしても、驚きゆえに益々高鳴りそうになります。新聞紙の上に悲しみの滴(しずく)が、いくつも微かな音を伴って紋を付けていきます。雨情さんは、喉の奥から悲しみの声が出るのを堪えていましたが、我慢しきれなくなり、新聞の上に手をついて、声を出して泣き出してしまいました。


「啄木さん、なんでそうだに早く死んじまったのだ。まだ、夢を果たしでねえだろうが・・・。わすだって、果たしでねえが、これからだろうが・・・。わすだって、そう思って生きでいるし、生きでいがなくではなんねえ、そう自分に言い聞かせでいるでやんす。啄木さんは、わすのライバルだった。だがら、同じ東京に居ても、ええで会うぺどしながった。啄木さんの短歌、小説が、時々新聞に載っているのを、わすはしっかりど読んでいたさ。最近は、難しい評論も書いていたな、啄木さん。わすの心には、お前さんが住んでいたよ、だがれえづもお前さんのこどを忘れでへえながったよ。これからだっていうのに、何故死んじまったのだよ。お互いが成功したら、銀座か浅草かで、お祝いの大騒ぎしたがったなあ!」


啄木さんは、釧路から東京に出てきて、与謝野鉄幹・晶子夫婦に推されて雑誌「スバル」の発行人をやったり、東京朝日新聞社にて夏目漱石主宰の朝日文芸欄の校正を担当したり、「二葉亭四迷全集」の校正にも携わるなど、一生懸命に活動をしていました。朝日新聞や毎日新聞に投稿して、評論「弓町より-食らふべき詩」(明治42年11月30日)、長詩「心の姿の研究」(同年12月9日)、評論「政治と文学」(同年12月19日)、評論「性急な思想」(明治43年2月13日)等を積極的に発表していました。


2月に発表した「性急な思想」で、啄木さんは、当時の文壇・思想に見られる「性急(せっかち)さ」を批判しています。変わりつつある社会における道徳はどうあるべきかとか、これからの日本はどうあるべきかとか、実際の社会生活の問題への対処法とかについて真面目に考えずに、これまでの日本の習慣・道徳・思想を古いとか駄目だとか否定してばかりいる自然主義の文壇・思想は、「性急(せっかち)であるにすぎない」「性急(せっかち)な心は、目的を失った心である」。つまり啄木さんは、非近代的であることの方が誇りであり、真面目に自己の生活を改善していく努力が必要だと主張しています。昔の啄木さんとは、大分違った感じです。


啄木さんは、明治43年6月1日に無政府主義者の幸徳秋水が湯河原で逮捕され、その数日後に大逆事件を朝日新聞社内で知って衝撃を受け、それから進むべき道を掴んだかのように、ある方向に走り出しました。6月から7月にかけて、啄木さんは大逆事件に関連して「所謂今後の事」を執筆します。当然、朝日新聞に掲載してもらおうと思って書いたのでありますが、官憲当局の目もあって、社は掲載許可をくれませんでした。


掲載されなかった「所謂今度の事」には、どんなことが書いてあったのでしょうか?「所謂今度の事」とは、もちろん「大逆事件」のことでありますな。「今の様な物騒な世の中で、万一無政府主義者の所説を紹介しただけで私自身亦無政府主義者で有るかの如き誤解を享ける様なことが有っては、迷惑至極な話である」と啄木さんは言っています。明治になって日本は欧米と並ぶ近代国家となるべく国家体制を整備し、天皇・皇室を父母とする家族共同体として立憲君主国を構成してきましたが、無政府主義者によって起こされた今回の事件は「日本開闢以来の新事実たる意味深き事件」で、「国民」がこの事件を直視するのを避けるのはよくない。無政府主義者は「最も性急(せっかち)なる理想家」だ!啄木さんは、家族共同体である筈の「国家」が、権力として「国民」個人を抑圧することとなったこの事件をどう解釈したらよいか、みんなで考えようよ!と言っているように、もりちゃんには思えます。


それから、啄木さんは、7月1日と5日に胃潰瘍で虎ノ門の長与胃腸病院に入院中の夏目漱石を訪ねています。漱石先生から「ツルーゲネフ全集」第5巻の英訳本を借りているのです。おそらく啄木さんは、「二葉亭四迷全集」の校正係の仕事をしながら、地方貴族の出身でありながら『猟人日記』で貧しい農奴の生活を描いて農奴制を批判したことで逮捕・投獄されたりしながらも、農奴解放に大きな役割を果たしたツルーゲネフに興味を持ち、そこでは昔の渋民村にいた頃の自分を投影していたのかもしれませんな。余談ですが、漱石先生は、翌8月から療養のために伊豆の修禅寺に出掛け、24日に大吐血をします。所謂「修禅寺の大患」であります。


その漱石先生が修禅寺にて胃痛で唸っておられる時に、啄木さんはかの有名な「時代閉塞の現状」を執筆しています。この「時代閉塞の現状」は、自然主義文学批判論と言われています。当時の日本を思想的に覆っていたのは自然主義でありました。その自然主義は、ヨーロッパの自然主義と異なり、「国家」を怨敵とする唯物論的な「政治」に向かわず、観念論的な「純文学」の方向に行ってしまいました。それ故、日本の若者はその風潮について行き、閉塞状況に置かれてしまいました。これからの我々若者は「今最も厳密に、大胆に、自由に『今日』を研究して、其処に我々自身にとっての『明日』の必要を発見しなければならぬ」と啄木さんは厳しい覚悟を主張し、警告を発しています。北海道時代のいい加減な啄木さんと違って、えらく真面目でハッキリとした主張をしておられますなあ!啄木さんは、大逆事件を契機に、自分が対象とするテーマをしっかりと掴み取ったのかもしれません。


啄木さんとしては、啄木さんの確信めいたこの「時代閉塞の現状」を朝日新聞の「朝日文芸欄」に掲載するつもりだったのですが、これまた、社は官憲当局や世情を気にして掲載を許可しませんでした。その時の啄木さんの熱い思いと失望を想像すると、啄木さんはその遣る瀬無い気持ちをどう落ち着けたのでありましょうか?


そんなことがあって、きっと元気がなかった啄木さんを職場で見ていた社会部の渋川玄耳部長が、9月に東京朝日新聞の短歌投稿欄「朝日歌壇」を新設し、その選者に啄木さんを抜擢したのであります。啄木さんの久しぶりの笑顔が想像できますなあ。嬉しいことに、翌10月の初めに、啄木さんに長男が生まれます。啄木さんは、その嬉しい思いを短歌にしています。


「十月の朝の空気に あたらしく 息吸ひそめし赤坊のあり」
「十月の産病院の しめりたる 長き廊下のゆきかえりかな」
「真白なる大根の根こころよく肥ゆる頃なり男生れぬ」


ところが、その月の27日に、その長男が急逝してしまうのであります。啄木さんの運命とは、どうもこういうマイナスの転回が多いですなあ。悲しくなっちゃいます。翌年明治44年になって、啄木さんは体調を崩してしまい、朝日新聞への出社は1月30日が最後になってしまいます。踏んだり蹴ったりで、ホントに悲しくなります。


(次回に続く)



投稿者 tuesday : 2012年11月25日


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