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「波浮の港」が流行した昭和3年とは? その⑩ 渋谷天外と水の江滝子

もりちゃんは、昭和3年を語っておりますが、ここまでのお話では、日本はまだまだ貧しくはありましたが、震災からの経済復興により、庶民生活でも繁華街では明るく賑やかになってきており、女性の華やかさや頑張りがあって、なんとなく頼もしさが窺えますな。


もりちゃん思うに、庶民の文化が花咲き始めたのが昭和3年ではないでしょうか。この年には、あの藤山寛美で有名になった松竹新喜劇の前身であった「松竹家庭劇」を渋谷天外が大阪道頓堀の角座で旗揚げをしておりますし、東京では「東京松竹楽劇部」(後の松竹歌劇団SKD)が設立され、水の江滝子らが入団しております。新しい催し物であり、物珍しさもあり、庶民が娯楽を楽しむようになってきたのであります。そうです「昭和歌謡」も娯楽のひとつとして花を添えていたのですぞ!


ここでちょっと、渋谷天外さんと水の江滝子さんについてウンチクを述べたく、横道に逸れさせていただきます。渋谷天外さん(1906-1983)は戦後に満州から引き揚げてきた藤山寛美さんと黄金の松竹新喜劇時代を築き上げます。天外さんは、喜劇の原作・脚本を数多く書いておられます。ペンネームは「舘直志」(たてなおし)と駄洒落てました。藤山寛美の有名なセリフ「もしもし、お父しゃん?、ボク、寛一(カンイチ)」という「親バカ子バカ」はテレビドラマにもなって、話題になりましたな。


天外さんの奥さんが昭和30年代のオロナインH軟膏のテレビコマーシャルに出ていた女優の浪花千栄子さん(1907-1973)です。「浪花千栄子でございます」という関西弁のコマーシャルは大村崑さんのオロナミンCと一緒に「巨人の星」のときも流れていたかもね?この方も、松竹新喜劇には欠かせない人でした。黒澤明、溝口健二、小津安二郎、木下恵介などの映画にも出てはりましたなあ。何故、彼女がオロナインの宣伝をしてはったか知ってはりますか?浪花千栄子はんの本名が南口キクノ(軟膏効くの)やったからというお話だす。ホンマかいな?ホンマだす。


へてから、水の江滝子さん(1915-ご健在)、戦前は断髪・男装姿で松竹少女歌劇団のスター「男装の麗人」として「ターキー」という愛称で大東亜戦争前まで騒がれてました。滝子さん、昭和8年(1933年)に待遇改善ストライキを起こし、湯河原温泉の旅館に立てこもったが、謹慎処分をくらったとのこと。滝子さん、昭和30年代にはNHKテレビの「ジェスチャー」という番組に柳屋金語楼さんと出演してましたなあ。もりちゃん、小学生の低学年だったのですが、よく見てました。滝子さん、昭和30年以降は日活の映画プロデューサーをしておられたんですよ。あの石原裕次郎を育てた人で、石原裕次郎の映画のプロデュースをしておられました。


おっと、昭和3年の話が、昭和30年頃から昭和45年頃まで跳んでしまいましたな。お読みになっている皆さん、いつを語っているのか訳が分からなくなり頭が変になってしまってますか?次回は、ちゃんと昭和3年を語ります。



投稿者 tuesday : 2006年05月07日


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