もりちゃんは、「張作霖爆殺事件」が昭和天皇にどのように報告されたかを語ります。歴史には、くだらない意外な真実があるのですな。
当時26歳の若かりし昭和天皇は、それからまだかまだかと田中首相の報告を待ち続けますが、一向に報告はありませんでした。天皇の側近たちが、かなり催促したのでしょうか、翌年昭和4年5月6日に田中義一首相は宮中に赴きます。「あの事件に日本陸軍とは一切関係していない」「張作霖を警備できなかったのは関東軍に責任があるので行政処分を行う」と報告したのであります。
当初は「関東軍が関係している」と報告しておきながら、それを翻し、軽い行政処分で終わらせたいとする田中義一首相に対し、天皇はお怒りになり、「辞表を出せ」と強く仰せられたのでありました。6月27日に昭和天皇は田中義一首相に辞職を促しています。
にもかかわらず、田中義一首相は、28日に河本大佐らを軍法会議でなく行政処分にしたため、天皇は田中義一首相を再び宮中に呼びつけ「辞めるように!」と告げられたということであります。田中義一内閣は、7月2日に総辞職しました。そして、田中義一は、心労が重なったのか、9月29日に亡くなっています。時の首相も組織の中で翻弄され、結局は命を縮めることになるのですなあ。
次回からは、いよいよ本論、「波浮の港」の作詞家・作曲家について語りますよ!お楽しみに!
投稿者 tuesday : 2006年05月27日 |