昭和3年の古賀政男の青春物語を、もりちゃんは語っております。
古賀さんは自伝でこの時のハルピンについてこう書いています。
「ハルピンは広大な平原に悠々としたウスリー河が流れ、そこで見る赤い夕陽は『ここはお国の何百里』という歌が自然と口に出る感慨深い地であった。」(「わが心の歌」)
古賀さんは明治37年(1904年)日露戦争が始まった年に生まれたからか、日露戦争の最中明治38年に発表された「戦友」(作詞:真下飛泉、作曲:三善和気)を思い出したのでありましょうか。日露戦争の地上戦、特に203高地や奉天会戦は悲惨な戦いだったようで、この歌詞はその悲惨さを物悲しく伝えています。
張作霖爆殺事件の起こった奉天とハルピンは離れているといっても、古賀さんたちは、日本が徐々にキナ臭い時代へと進んでいくのを肌で感じていたに違いない。だから、彼は「戦友」を口ずさんだのではないか。満州は中国の地でありながら、ロシア人はいるは、朝鮮人はいるは、日本人はいるはでありまして、その満州の隣、北京付近では国民軍の蒋介石、共産軍の毛沢東たちがドンパチやっていた。古賀さんは、そんな状況の中、よく満州まで行ったものですなあ。
次回は、古賀さんの悲しい恋のお話をしましょう!
投稿者 tuesday : 2006年06月12日 |