古賀さんは、造り酒屋のせがれと「松島や、ああ松島や、松島や」(この俳句は松尾芭蕉の句ではなく、江戸時代後期に相模国(神奈川県)の狂歌師・田原坊が作ったものらしいですな。)の仙台松島を見物したあと、蔵王の青根温泉に宿泊します。当時は宿屋が二軒しかないひなびた温泉地だったようですな。古賀さんは、剃刀を持って宿を出て、谷間に下りて、人に見つからないような場所にうずくまって、喉に剃刀をあてた。自殺を図ろうと、剃刀を引いたけれど、死に切れませんでした。彼は、その時の悲しい絶望の想いを詞に書きました。それが「影を慕いて」の詞です。
この時に詞と曲を一緒に作ったとか、その詞は讃美歌501番に似ているとか、大正時代の演歌師で「籠の鳥」の作曲者である鳥取春陽(1899-1932)氏の「君を慕いて」の盗作ではないか、とか諸説あるようです(菊池清麿著「評伝古賀政男」アテネ書房に詳しく書かれています)。
昭和3年の夏を過ぎた時点では、「影を慕いて」は、おそらくまだ詞しかできていなかったのでしょう。また、大正時代からの演歌師の流れ(「野口雨情作詞、中山晋平作曲の「船頭小唄」等で、後の歌謡曲の演歌とは違う)がまだ昭和3年まで残っていたため、その物悲しい影響を受けて似ていたとしてもおかしくはないと、もりちゃんは考えます。この時点では、別にレコードを出そうと思って作った曲ではないのだから、問題にすべきではないですな。
古賀さんは、中島梅子さんと別れようと夏休みの間ずっと悩んでいたのでしょう。就職のこともどうなるのか不安だったし、頭が痛かったに違いないですな。だから発作的に自殺を思いついたのでしょう。古賀さんはこの秋に梅子さんに別れる話をしたと思われます。それは二人双方につらい出来事でありまして、その後、梅子さんはレッスンにも来なくなり、姿を暫く見せなくなりました。年が明けて昭和4年の1月の吹雪の日に、突然梅子さんがやつれ果てた姿で現れて、それまで古賀さんに宛てた熱情的なラブレターを全部引き取って帰っていったとのことであります。それから間もなく梅子さんが発狂して亡くなったという知らせが古賀さんに届きます。つらいつらいお話ですな。
投稿者 tuesday : 2006年06月25日 |