佐藤千夜子さんから歌曲にして歌わせて欲しいと言われた時の「影を慕いて」は、今聴く「影を慕いて」とはかなり感じが違ったのではないかと思われます。おそらく、あのドチチチチ、ドチドチドチというイントロはなく、主旋律メロディだけではなかったのではと、もりちゃんは推理しています。
それは何故かと言うと、古賀さんは当時来日した世界的ギターの巨匠アンドレ・セゴビアの演奏会を聞いて感動し、特にトレモロ奏法が素晴らしかったらしく、「興奮のおさまらないうちに、私は一気に『影を慕いて』の詞と曲をつくりあげた」と自伝に書いておられます。おそらく、あのイントロ部分をセゴビアの影響を受けて作曲したのだと思われます。詞も書き直したかもしれませんな。「ギターをとりて 爪弾けば どこまで時雨 ゆく秋ぞ トレモロさびし 身は悲し」の「トレモロ」は、まさしくセゴビアの「トレモロ」をイメージしており、亡くなってしまった梅子さんへのわびしい想いと痛みを込めているように思えてなりません。
念のため、時間的な経過を整理していくと、こうなりますな。古賀さんは、中島梅子さんと別れるべきだと相当に悩んで、昭和3年夏に自殺未遂をし、その直後にその心の傷から詞を書いた。そして秋に、古賀さんはその詞にメロディを付けて梅子さんと別れる決心を表現しようとした。その譜面を梅子さんはレッスンの時に目撃します。昭和4年初めの雪の日に梅子さんと別れます。直後に梅子さんは亡くなってしまい、古賀さんは梅子さんを偲んで挽歌として主旋律部分を完成させた。そして、古賀さんは、それを歌なしでギター合奏曲にして昭和4年6月22日の定期演奏会で演奏した。定期演奏会に出演してくれた佐藤千夜子さんの慰労会がその数日後に行われ、そこで「歌曲(流行歌)にする」話になる。それから暫くして10月28日に、古賀さんはセゴビアの演奏を聴いた。古賀さんは、セゴビアのトレモロにヒントを得てイントロと間奏を付けてギター伴奏に編曲し、何度も千夜子さんのところに楽譜を持って行って見てもらった。こんなストーリーですな。
そして、ついにレコード化の話が実現したのでありますな。佐藤千夜子の所属するビクターレコードから「影を慕いて」の他に数曲作曲の依頼があり、昭和4年12月23日と年明けに作曲した数曲を含めて佐藤千夜子の歌でレコーディングとなったのですな。そのときに吹き込まれた「文のかおり」(古賀政男作詞・編曲)と「娘心も」(浜田広介作詞)は昭和5年2月に、「青い小鳥」(作詞不詳)は11月に発売になっております。ところが「影を慕いて」は、その時にレコーディングされていないのですな。レコーディングされたのは、10月20日で「日本橋から」(浜田広介作詞)と一緒に吹き込まれ、正月新譜ということで12月に発売されたのであります。「影を慕いて」はB面扱いだったのです。ワルツ風の悲歌が、レコードディレクターには、まだなじめなかったのでありましょうか?
いずれの曲もあまりヒットしませんでしたが、後に古賀政男がコロムビアレコードから「酒は涙か溜息か」(高橋掬太郎作詞、藤山一郎唄)で昭和6年9月にヒットを飛ばし、作曲家としての地位を築いてから、昭和7年2月に藤山一郎の唄によって再度「影を慕いて」はレコード化され、大ヒットとなったのであります。足掛け4年という歳月が流れておりますな。名曲「影を慕いて」誕生には、このような秘話があったのでございます。
さて、次回からは、ようやく「波浮の港」の作詞者野口雨情と作曲者中山晋平について語りますよ!乞うご期待!
投稿者 tuesday : 2006年07月11日 |