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童謡、民謡、そして昭和歌謡への流れ(5) 岡倉天心と北茨城

もりちゃんの「聴いて懐かし『昭和歌謡』を語れば」は、北茨城の太平洋に面した景観の中で詩心を育てた野口雨情を語り始め、同じ北茨城出身の米米CLUBのカールスモーキー石井さんは北茨城の景観と雨情さんの影響を受けたこと、さらにはその景観に惚れて北茨城市に居を構えた岡倉天心さんとその弟子たちにも影響を受けたことを論じております。もりちゃんの昭和歌謡論も奥が深いですな。呵々。


天心さんは、明治8年(1875年)、東京開成学校(明治10年(1877年)に東京大学と改称)に入学し、あの有名なお雇い外国人教師アーネスト・フェノロサ(1853-1908年)に学んでいます。フェノロサさんは政治学・経済学の先生であったのですが、日本美術にかなり興味を持っていたことから、日本中の神社仏閣を精力的に動き回ったようですな。


天心さんは通訳をさせてもらったのか頼まれたのか、フェノロサさんと一緒に行動したのでありますな。次第に、天心さんは、フェノロサさんの影響を受けて、日本の古美術に関心を持つようになったのであります。人の運命というのは、このように、ひょいとしたことから変わって行くのでありますな。


明治13年(1880年)7月、天心さんは東京大学を卒業しますが、彼は6歳から英語を学んでいましたので、英語で話す書く考えるなんてぇのは、朝飯前であったのですが、大学での成績はサッパリだったようですな。卒業も危うかったらしい。彼は卒業の前年に結婚をしてまして、この奥さん、夏目漱石の奥さんも顔負けの超ヒステリーで、痴話喧嘩がもとで書き上げていた「国家論」という卒業論文を提出締切日直前に焼いてしまい、天心さん、もう同じ論文を書く時間がなく、あわてて急遽2週間で全然内容の違う「美術論」という卒業論文を書いて、それを提出して何とか事なきを得、卒業できたとか、良い奥さんをもらわないと苦労しますな。ヒステリー狂の奥さんは、いけませんなあ。


大学を卒業した天心さんは、明治13年(1880年)に文部省に入り、改めて本格的な調査として全国の神社仏閣にある仏像や絵などを見て回り、フェノロサさんの言うとおり日本美術が素晴らしく優秀であることを改めて認識し、長い歴史を持つ伝統の日本古美術を守り、そして育てて行かなければいけないと強く思ったのであります。


次回も、岡倉天心さんについて語ります。ホンマに昭和3年のお話は、なかなか進みませんなあ!



投稿者 tuesday : 2006年07月30日


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