もりちゃんの昭和歌謡ウンチク(戦前の歌謡曲)

昭和は、関東大震災からの復興で始まりましたが、昭和の初めは金融恐慌(昭和2年)や世界大恐慌(昭和4年)により、経済不況の状態が続きました。そんな暗い時代に意外にも庶民は、そんなに落ち込んではいなかったようであります。

ジャズ音楽に合わせてダンスを踊るモダンボーイやモダンガールでダンスホールが賑わい、二村定一が唱うジャズソング「青空」「砂漠に日は落ちて」のレコードが売れていました。そんな中、昭和歌謡の第1号といわれる「波浮の港」もヒットし、ジャズソングとともに巷に流れていたのでございます。そして、ジャズ風の流行歌「君恋し」が昭和4年の初めにヒットします。(昭和36年にこの曲をリバイバルでフランク永井が唄い、第1回日本レコード大賞を受賞しています。名曲は時空を超えるでありますな。)

秋にはブラックマンデーなんのそので、「東京行進曲」が「ジャズを踊って、リキュルで更けて」と唄われて大ヒットします。大衆化の時代を迎え、銀座、浅草、新宿などの盛り場は、大賑わいとなっていました。浅草は、カジノフォリーなる音楽喜劇の榎本健二や松竹少女歌劇の男装の麗人ターキーこと水の江瀧子の人気は凄かったそうですな。銀座も、カフェーが乱立し、女給さんと遊ぶ男性も多く、昭和6年には「女給の唄」が流行りました。

そして、昭和6年の9月に2つの大きな出来事がほぼ同時に起きます。ひとつは、長く続く不況を乗り越えるために「満州は日本の生命線」を具体化すべく軍部が満州で満州事変を起こします。もうひとつは、昭和歌謡の大革命であります。古賀政男作曲による「酒は涙か溜息か」が100万枚を超えるという昭和歌謡で初めてのミリオンセラーの大記録を作ります。革命児古賀政男は「影を慕いて」「丘を越えて」「サーカスの唄」等のヒットを連発して放ち、他の作者による流行歌も量産され、昭和歌謡の土台がしっかりと作られたのでございます。

流行歌の中で注目すべきは、この頃から昭和10年くらいまで、「鶯芸者」が活躍します。二三吉、勝太郎、市丸という綺麗どころのお姉さんであります。「祇園小唄」「浪花小唄」「島の娘」「天龍下れば」などの新民謡風の流行歌が流行り、極めつけは昭和8年の「東京音頭」であります。日本中の庶民がこの曲で盆踊りを踊り続けたのであります。江戸末期の「ええじゃないか」と同じ現象が起きたのでありますな。これは日本人の習性のひとつでありましょうか?

前年の昭和7年には5・15事件が起こり、犬養首相は「話せばわかる」と言ったけれど暗殺され、この昭和8年3月には、国際連盟を脱退して軍国主義の方向に一直線に進んでいたのであります。それにもかかわらず、昭和9年には各レコード会社が「東京音頭」の二匹目のドジョウを探して、「さくら音頭」という同タイトルで詞と曲が異なるレコードを出して「さくら音頭」合戦を繰り広げたのでありました。政治や事件とは関係なく、この頃の庶民は、「ええじゃないか」よろしく盆踊りやヨーヨーに興じていたのでありますよ。一般庶民が政治や事件に呆れて関心を持たなくなると、こういう現象が起こるのでありますな。

この頃、「鶯芸者」以外に活躍した人気歌手に満鉄出身のエリート東海林太郎がおりました。股旅物の「赤城の子守唄」や満州曠野をイメージした「国境の町」が大ヒットしました。タキシードに丸メガネで直立不動の姿は、彼が声楽家を目指した証と言われています。

昭和10年代に入ると、都会での景気が良くなってきますが、東北での農民の生活は改善されていませんでした。昭和11年に入ると2月に、その実情に憤慨した青年将校らが主導して2・26事件を起こします。そして、5月には男性諸氏が思わず股間を手で押さえてしまうほど怖い阿部定事件が起こり、世の中を騒がせ、息が詰まるような重苦しい世情となっていました。

丁度その頃に、そんな雰囲気を忘れたいかのように、藤山一郎による明るい清々しい歌声による青春の歌がヒットしました。古賀政男作曲の「東京ラプソディ」です。その年は、夏にベルリンオリンピックがあり、女子200メートル平泳ぎで前畑秀子が優勝し、明るい話題を提供しました。ベルリンからのラジオの実況中継「前畑がんばれ」の連呼は、38回もあったのでございます。

昭和12年に入ると、ジャズ歌手のディック・ミネ起用による「人生の並木路」がヒットしました。原節子主演の日活映画「検事とその妹」の挿入歌でした。日本は7月に盧溝橋事件で日中戦争に突入し、12月には南京を占領してしまいました。昭和13年の初めには、近衛文麿内閣が「(中国)国民政府を相手とせず」と声明発表し、中国との関係は悪化していったのは勿論、日本の動きに異を唱える米国や英国との関係も悪くなっていきました。

でも、庶民はそのような国際情勢はあまり分かっていなかったのでしょうな。庶民の皆さんは、9月に封切られたメロドラマ映画「愛染かつら」を観に次から次へと映画館に足を運びます。封切り前に発売した主題歌「旅の夜風」のレコードも爆発的に売れました。

この昭和12年から15年にかけて、日中戦争が切っ掛けで、映画と流行歌に中国ブームが訪れます。映画では李香蘭の人気沸騰で、中国を舞台にした長谷川一夫との共演作が何本か作られました。流行歌は「支那の夜」「上海の街角で」「上海だより」「上海ブルース」「上海の花売り娘」「満州娘」「夜来香」「蘇州夜曲」などがありますな。また、戦地の兵隊さんたちに人気があったのが、ブルースの女王淡谷のり子が唄う「別れのブルース」や「雨のブルース」等の服部良一メロディーでした。

昭和15年になると、日中戦争は泥沼化していました。本当は、この年に東京オリンピックが開催される予定でしたが、戦争をしている状態でしたから当然中止となってしまいました。そのかわり、皇紀二千六百年の記念祝賀行事が一年中日本の到る処で行われました。誰が数えたか知らないけれど、神武天皇の即位から数えて昭和15年が2600年目だったのであります。

国内はお祝いムードでありましたが、戦地の兵隊さんにとってはいつ死ぬか分からず苦しくて辛い戦いが続いておりました。そんな頃発売された「誰か故郷を想わざる」は、西條八十と古賀政男のゴールデンコンビによるものだけにコロムビアは大量にレコードを生産しました。ところが、発売してみると、全くの期待外れで全然売れませんでした。コロムビアではレコードの在庫処分に困り、捨てるよりはましということで戦地の中支に慰問用として送ったところ、戦地の兵隊さんたちの間で大人気となり、逆輸入で内地でも大ヒットしたのであります。

この年にはもう一つ大ヒットした名曲があります。女優高峰三枝子が唄った「湖畔の宿」であります。お祝いムードとは裏腹の中でヒットした曲でした。感傷的で、「ランプ」「トランプ」「クウィーン」などの関係が悪化していた米国と英国の言葉が入っているという理由でクレームが付けられましたが、この当時の庶民は時勢に反して、この曲を好んで聴いて唄っていたのであります。この時、日本の国はすでに国際的に孤立化しており、翌年太平洋戦争に突入していくのであります。

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