もりちゃんの昭和歌謡ウンチク(戦後の歌謡曲)

昭和20年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏することによって、漸く戦争が終わりました。日中戦争、太平洋戦争における邦人の戦没者は、300万人(軍人・軍属230万人・民間人80万人)、戦争に巻き込まれた中国、朝鮮、フィリピン、東南アジア諸国の戦没者は2000万人を超えると言われており、多くの尊い命が失われました。

戦争に負け、東京はじめ日本の主要な都市は焼け野原となり壊滅的な状況でありました。当時の日本人は、本当に戦争の悲惨さと敗戦の屈辱が身に沁みて分かったとともに、強烈な虚脱感を感じて途方に暮れ、茫然と立ち尽くしたにちがいありません。

そのような状況の中で、純粋無垢な明るい希望のメロディーが日本全国に流れ始めたのでございます。そのメロディーとは、「リンゴの唄」であります。この歌は、戦後第1号の映画「そよかぜ」(昭和20年10月封切)の主題歌で、レコードは昭和21年1月に発売されています。SKD(松竹歌劇団)出身の並木路子の可愛らしい声が印象的で、戦前の大ヒット歌手の霧島昇とのデュエット曲であることが意外に知られておりませんな。霧島の歌よりも並木の可愛らしい歌声に前途に希望を失いかけていた沢山の人々が勇気付けられたのであります。

「リンゴの唄」の他に、終戦直後の歌謡曲として忘れられない名曲がもう1曲あります。それは、田端義夫(バタヤン)の唄った「かえり船」です。戦地や満州等から次々と各港に引揚船が入ってくるときに、各港では「かえり船」のレコードがかかっており、上陸した引揚者の皆さんは「この曲は何という曲ですか?」と訊いたといいます。バタヤンは、この曲が流れている港や駅で、復員兵が家族と抱き合って涙を流して喜ぶ姿を見て、「本当に歌手になってよかった」と生前に言っておられましたなあ!

映画やレコードだけでなく、ラジオ放送も国民を元気づけました。NHKの「素人のど自慢」が人気を博し、「湯の町エレジー」や「かえり船」がよく唄われました。この番組で初めて唄われた「異国の丘」が大ヒットし、吉田正が作曲家になるきっかけとなりました。また、真っ赤なドレスを着た小さな女の子が予選に出場し、「リンゴの唄」を唄いましたが、誰もが合格を確信したにもかかわらず、審査員から「子供らしくない大人びた歌い方はよくない」と言われて不合格になったことがありました。その女の子とは、美空ひばりであります。彼女は、その後、横浜の国際劇場で笠置シズ子の「東京ブギウギ」を唄って話題となり、映画にも出演してスターへの道を歩み始めるのでございます。

ほかの人気番組では、「ラジオ歌謡」というのがありましたな。「あざみの歌」「山のけむり」「さくら貝の歌」「白い花の咲く頃」等、抒情的な美しい名曲、これを「抒情歌謡」と呼ぶのであります。この番組では沢山の名曲が生まれ、当時の皆さんはラジオから流れる歌詞をちゃぶ台の上で広告の裏なんかに一生懸命書き止めて歌詞を覚えたものでありましたなあ。

戦後の歌謡曲の特色は、「青い山脈」「東京の花売り娘」「憧れのハワイ航路」等の明るい歌と「湯の町エレジー」「悲しき口笛」等の戦争で傷んだ心を癒す演歌調の歌が流行してコントラストを織り成していましたし、そしてGHQ(進駐軍)の影響で「君忘れじのブルース」「星の流れに」「夜霧のブルース」等のブルース調の曲や「東京ブギウギ」「買い物ブギ」「銀座カンカン娘」等のジャズ風のリズミカルで賑やかな曲がはやりました。さらには、タンゴのリズムで「上海帰りのリル」や「赤い靴のタンゴ」もヒットしました。実にいろんな曲調の名曲が生まれたのでございます。

昭和25年6月に朝鮮戦争が勃発し、それまで経済的な苦しみに喘いでいた日本は軍需景気となり、予想していたよりも早く経済や産業の復興が進んだのであります。朝鮮半島は再び戦火に包まれてしまいましたが、日本はそれで救われたという、それはそれは皮肉な明暗が起こったのでありますな。昭和27年には、講和条約が発効して、日本は占領下から脱出して、やっとの思いで独立国家として主権を回復したのであります。

朝鮮戦争が終わる昭和28年には、ひばり・チエミ・いづみの三人娘の人気が急上昇するは、ラジオ放送ドラマ「君の名は」で女風呂は空っぽになるは、テレビ放送の開始で街頭テレビに凄い群衆が集まるはで、庶民の生活は、徐々に余暇を楽しむほどに改善してきたのでございます。巷には「街のサンドイッチマン」や「お富さん」(昭和29年)が流れ、浮かれて酔っぱらったオジさんが千鳥足で歩きながら、「♪サンドイッチマン、ほれっ、サンドイッチマン♪」とか「♪粋な黒塀 見越しの松に~♪ 仇な姿の洗い髪♪ 死んだ筈だよ お富さん♪」と鼻歌を唄える時代になったのでございますよ。

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