もりちゃんの昭和歌謡ウンチク(昭和30年代の歌謡曲

昭和30年になりますと、日本の輸出が急激に伸び始めたのでございます。すると、企業は設備投資をして生産を増やします。企業は儲かるは、労働者の給料も上がるはで、消費が活発になったのであります。 それに伴い、各地方から東京に沢山の人たちがどんどん集まって来るようになるのであります。

前年の昭和29年に青森駅から中学卒業生700名を乗せて「就職列車1号」が東京・上野駅に向けて出発しています。若者たちがどんどんと東京に押し寄せるのであります。田舎から出てきた若者は、見も知らぬ処に住み込みで暮らし、汗水流して懸命に働いたのでございます。

この頃、昭和歌謡に「ふるさと歌謡」という新しいジャンルが生まれました。東洋音楽学校出身の高野公男(茨城出身)と船村徹(栃木出身)は、西條八十や古賀政男のような偉大な作詞家・作曲家になることを夢に見て、大ヒット曲を生み出そうと時代の流れを読み取って、「東京に来て、一生懸命働いているが、故郷を思い出しては、帰りたくても帰れない、寂しい思いをしている若者が多いに違いない。彼等の心を癒す歌謡曲を作れば、きっと売れるに違いない」という信念のもとに春日八郎の「別れの一本杉」を作りました。これが念願叶って大ヒットしたのであります。翌年昭和31年には、青木光一の「早く帰ってコ」も大ヒットとなります。ところが、やっとの思いでヒット曲を出して作詞家の途を歩み始めようとした高野公男は、9月に結核で亡くなるのでございます。あまりにも哀しいお話でありますな。

昭和30年のヒット曲には、菅原都々子の「月がとっても青いから」(4月)、宮城まり子の「ガード下の靴みがき」(8月)、鶴田浩二の「赤と黒のブルース」(9月)、大津美子の「東京アンナ」(10月)等がありましたな。

昭和31年1月に、湘南に遊ぶ不良の若者たちを描いた「太陽の季節」(石原慎太郎)が芥川賞を受賞しました。早速、日活で映画化され、太陽族ブームが訪れました。湘南の舞台に合わせて、ハワイアンの曲が流行りました。兄の「太陽の季節」の映画化が切っ掛けで映画デビューした石原裕次郎が、映画「狂った果実」では主役を演じ、スチールギターとウクレレの伴奏によるハワイアン風の同名主題歌(8月発売)も唄いました。この頃から、バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ等のいくつかのハワイアンバンドが活躍し、この中から和田弘とマヒナスターズが、歌謡曲の世界で鶴田浩二の曲「好きだった」(10月)をハワイアン風にカバーしたレコードを出して注目されました。

南の海と言えば、マンボも流行りましたなあ!昭和30年頃から「ウーッ、ヤーッ!」の掛け声(少年ジェットではありません)で有名な名曲「マンボNo.5」がヒットし、ペレス・プラード楽団が昭和31年に来日するや、マンボ・ズボンが流行り出しました。そりゃもう気分は湘南の海からいきなり飛んで、キューバ・カリブの気分となったのでございます。アロハシャツを着た太陽族もリーゼントのロカビリー兄ちゃんもみんなマンボ・ズボンを穿いていました。前年の大津美子の「東京アンナ」はマンボを取り入れた曲ですし、翌年に浜村美智子が唄った「バナナ・ボート」(ハリー・ベラフォンテのカバー曲)はカリブ風で、彼女は「カリプソの女王」なんて呼ばれたのでございます。

昭和31年5月に売春防止法が制定されました。不幸な女性が幸せになれる時代が訪れることを願ってかどうか分かりませんが、その頃から大津美子の「ここに幸あり」が大ヒットし、鈴木三重子の「愛ちゃんはお嫁に」も流行りましたな。曽根史郎の「若いお巡りさん」もヒットしました。夜遅くまで公園のベンチにいるアベックがお巡りさんに呼び止められ、早く帰るように注意されるのですが、戦後の混乱と風紀の乱れから脱却して、明るく清く正しく真面目に生きていけば幸せになれるという雰囲気が出てきたのですかな?

三橋美智也が「リンゴ村から」(5月)「哀愁列車」(6月)と連続してヒットを飛ばし、 三浦洸一の「東京の人」(3月)、山田真二の「哀愁の街に霧が降る」(4月)や島倉千代子の「東京の人よさようなら」(4月)という都会の街東京をテーマにした曲も流行りました。コロムビアローズの「どうせひろった恋だもの」(10月)や美空ひばりの「波止場だよお父つぁん」(12月)もヒットしていましたな。

翌昭和32年のお正月気分が冷めやらぬ時に、美空ひばりが浅草の国際劇場で熱烈な女性ファンに塩酸をかけられるという事件が起こりました。幸い大事には至りませんでしたが、大騒ぎとなりましたな。

この年には、東京タワーの建設が始まり、新しいビルが建ち、戦災や戦後の暗い名残のイメージが消えて、東京は新しく明るいイメージの綺麗な都会の街並みに生まれ変わり始めます。まさに映画「三丁目の夕日」の時代でございますな。東京には、観光旅行で所謂「東京見物」に訪れる人が増えます。

昭和32年4月に島倉千代子が唄った「東京だョおっ母さん」が発売され、大ヒットとなりました。前年7月に発表された「経済白書」では、「もはや戦後ではない」と書かれましたが、この曲は、東京で働いている娘が年老いた母親を田舎から東京見物に招き、皇居(宮城)の二重橋、九段坂の靖国神社、そして浅草の観音様へと案内をするストーリー仕立てになっておりました。台詞が印象的で、物質的には都会の繁栄が甦ったのですが、特に靖国神社の桜の木の下で眠る戦死した兄の話が出てくるあたりは、日本人の多くがまだ精神面では戦争で傷ついた心を引き摺っていたということが窺えるのであります。当時、19歳という初々しい若さの島倉千代子の可愛い声で「おっ母さん」「お兄ちゃん」と呼び掛ける台詞が、十年余経っても戦争による心の痛みが癒えない大衆を泣かせたのでありました。

そう言えば、戦争の時代を経て苦難を共にして生きてきた灯台守の夫婦をテーマにした映画がありましたな。木下恵介監督の「喜びも悲しみも幾歳月」であります。10月の封切に先行してその同名主題歌のレコードは発売されています。若山彰が唄って大ヒットしました。戦争は人々の心にいつまでも深い傷を与え続けるものなのでありますが、この曲を聴くと何故か勇気づけられて元気になります。

おっと忘れてはいけません。東京見物を象徴する曲がもう1曲ありました。初代コロムビア・ローズが唄った「東京のバスガール」(9月)でございます。はとバスのバスガールを主人公にした軽快な曲で、綺麗な街並みに甦った東京で若い女性がバスガールとして懸命に明るく生きていこうとする息吹きが感じられます。日本の国が、ようやく「発車オーライ!」となったのでございます。

東京で働く若い女性と言えば、こんな曲もありましたな。それは藤島桓夫が唄った「お月さん今晩わ」(4月)であります。東京に働きに行ってしまった女のコの消息を、きっと彼女も眺めているかもしれないお月さんに「教えておくれよな」と田舎のリンゴ畑でお願いする淋しい男のお話でありました。

昭和32年5月に、闇市があった有楽町は、そごうデパートがオープンしてモダンな都会的な街に生まれ変わり、大賑わいとなっていました。そのデパートのキャッチコピーを曲名にしたフランク永井の「有楽町で逢いましょう」(11月)によって、有楽町は東京の恋人たちのデートの待合せ場所になりました。この「有楽町で逢いましょう」という曲は、ムード歌謡の第1号として記念すべき名曲と位置付けられております。

6月には、浪曲師の三波春夫がレコードデビューしておりまして、「船方さんよ」「チャンチキおけさ」が大ヒットし、「雪に渡り鳥」(10月)も好調な売れ行きでした。

絶好調の映画スター石原裕次郎の「錆びたナイフ」が発売された8月に、茨城県東海村に原子力の火が点火され、日本が原子力利用を開始したのでございます。青木光一の「柿の木坂の家」(9月)、三橋美智也の「おさげと花と地蔵さんと」(9月)「おさらば東京」(11月)は、その頃の曲でございます。

翌昭和33年の2月、有楽町でとんでもない大騒ぎが起こりました。有楽町と言っても有楽町にある日劇(日本劇場)でのお話です。「日劇カントリー・ウエスタン」が開催され、ロカビリーを歌うリーゼント頭の若者3人、平尾昌晃、ミッキーカーチス、山下敬二郎が、若い女性に大変な人気で、大量の紙テープの嵐の中、唄っている途中にステージから女性ファンに引き摺り下ろされそうになる程で、熱狂の渦に包まれていたのでございます。プレスリー、ポールアンカ、ニールセダカ等の影響を受けて、そのカバー曲を唄うロカビリーブームの到来でございます。平尾昌晃や山下敬二郎らの唄う「ダイアナ」が大ヒットしました。それはそれは十余年前に戦争をしていたことをすっかり忘れてしまったかのような光景が日劇やジャズ喫茶で繰り広げられていたのでございます。この両極端をどう捉えたらよいのでありましょうや!平尾昌晃はオリジナルの「星は何でも知っている」(7月)を出し、その人気はますます上昇し、沸騰したのでありました。

テレビドラマの「月光仮面」が2月から始まっていて、月光仮面って「どこの誰だか知らないけれど」、でも「平尾のお兄ちゃんの言うように『星』は何でも知っているのだから、きっと月光仮面の正体を知っている筈だ」と、当時4歳になるかならないかのもりちゃんは子供心に、そう思っておりました。

4月になりますと、ミスターがデビューします。そうです!長嶋茂雄でございます。国鉄の金田正一投手から4打席連続三振を喰らうという実に見事な(?)デビューっぷりでございました。「だから云ったじゃないの」という松山恵子の曲が流行っていたのは、その頃のことでございます。六大学野球で活躍したからと言っても、厳しいプロ野球の世界では通用しないと、多くの人が思ったようであります。
でも長嶋は違ったのであります。その年の本塁打王と打点王の二冠を新人で獲ったのですから!凄いですよね!後楽園球場では「お~い、長嶋!」とみんなが声援を送ったものです。

8月にお湯をかけてすぐできるチキンラーメンが発売され、どの家でもお母さんが「お~い、できたよ!」と子供たちを呼んでましたな。その頃でしたかな?若原一郎の「お~い中村君」がヒットしていたのは?

秋から年末にかけては、島倉千代子の「からたち日記」(11月)が発売され、ヒットしておりました頃に、皇太子様と美智子様(現在の天皇・皇后両陛下)のご婚約のニュースが流れました。それから1ヶ月後の12月23日に東京タワーが出来上がりました。皇太子様が東京タワーを眺めながら「しあわせになろうね」と美智子様に言ったのかなあなんて、もりちゃんはこの曲を聴きながら思ったものでした。

次は昭和34年でございます。4月に、皇太子様と美智子様のご成婚式がございました。盛大なパレードが行われた沿道には、何十万という人が集まり、その模様は全国にテレビ中継されました。このパレードの中継を見たさに、テレビが爆発的に売れたと言いますな。その頃ですかな?巷ではペギー葉山が唄った「南国土佐を後にして」が流れておりましたのは?元浪曲師の村田英雄が戦前のヒット作「人生劇場」をリバイバルで吹き込んで、三波春夫と並んでジワジワと人気が出てきた頃でもあります。

夏ごろになりますと、三橋美智也がLPに「荒城の月」を入れて好評だったので、それに似せて作った「古城」(7月)が大ヒットします。ロカビリーの水原弘が映画「青春を賭けろ」の挿入歌「黒い花びら」(7月)を発表し、あれよあれよと言っている間にヒットして、第1回目のレコード大賞を受賞しました。

夏も終わり、9月26日に超大型の伊勢湾台風が東海地方を中心に襲いました。高潮から身を守るため多くの人たちが屋根の上で一夜を明かすという凄さで、鉄橋や線路が流され、各地に甚大な被害をもたらし、多数の死傷者が出ました。その頃に変な歌が流行ります。「♪ウッフン♪」という若い女性のお色気たっぷりの「黄色いさくらんぼ」(スリー・キャッツ)と「♪僕の恋人、東京へ行っちっち♪」という歌い出しの「僕は泣いちっち」(守屋浩)です。ともに浜口庫之助の作曲によるものです。

秋になりますと、この年の春にデビューしたザ・ピーナッツが双子の珍しさから人気急上昇中でありまして、10月に新曲「情熱の花」を出しました。すると、同じ柳の下に二匹目のドジョウを狙って(?)和風の双子こまどり姉妹が「浅草姉妹」でデビューしました。松山恵子の「お別れ公衆電話」が発売された頃のお話でございます。

マンボブームの流れから、昭和34年の暮れにトリオ・ロス・パンチョスが来日して、「ベサメ・ムーチョ」「ある恋の物語」「キサスキサスキサス」等のヒットと共にラテン音楽ブームが起こり、日本の歌謡曲にラテン風のリズムやメロディーが取り入れられ、次第に若者文化から大人のムードの曲に変化していきます。

この頃に、日本のレコード史に残る大変化が起こっていました。それまでのレコードは78回転のSP盤だったのですが、それが45回転のシングル盤へ切り替わり始めたのでございます。つまり、この時期は切り替わりの過渡期でありまして、同じ曲で、SP盤とシングル(EP)盤の両方が同時発売されたりしておりました。

翌昭和35年は、日本の政治のあり方について考えさせられる年でありました。この年は、60年安保の年でありました。年明けから、安保条約調印のために米国に向かう岸首相を阻もうと羽田空港に全学連がバリケートを作って立て籠もったり、反対集会や演説会が各地で開催され、6月には国会周辺で連日連夜の安保反対のデモ行進が繰り広げられ、学生だけでなく労働者や主婦までもが参加しました。安保運動で騒然とした東京とは対照的に大阪では藤島桓夫の「月の法善寺横丁」が流行り出していた頃であります。

6月15日にデモ隊は国会正門を突破して、警察機動隊と激しく衝突し、デモに参加した東大の女学生樺美智子さんが亡くなる等、日本全体を揺るがす流血事件にまでエスカレートしました。しかし、19日午前零時に安保条約が自然承認となり、安保反対運動は空しく終わりました。反対運動への挫折感から、「♪死んでしま~いたい~♪」という退廃的なメロディーが共感を誘ったのか、4月に発売された西田佐知子の唄った「アカシアの雨がやむとき」が、この頃からヒットし出したのでありました。この年の前半は、平和と民主主義をめぐっての政治や思想の嵐が吹き荒れた年でありましたなあ!

安保反対運動が終わり、夏になると、岸信介首相が退陣し、政治から経済の世の中に変わりました。「私は嘘を申しません」「経済のことはお任せください」という池田隼人首相が打ち出した「所得倍増計画」で、日本は高度経済成長へと向かいます。その先駆けなのか、どうか分かりませんが、ダッコちゃんが流行りました。森山加代子の「月影のナポリ」(5月)やダニー飯田とパラダイスキングの「ビキニスタイルのお嬢さん」(9月)のメロディーが流れる街中や海水浴場で、大人も子供も黒いダッコちゃんを腕にくっつけて歩いていましたなあ。

この年に他に流行していた曲には、茨城県の潮来を舞台にした花村菊江の「潮来花嫁さん」(4月)と橋幸夫の「潮来笠」(9月)がありましたし、戦前のリバイバルソングで井上ひろしの「雨に咲く花」(7月)や佐川ミツオの「無情の夢」(11月)もありました。さらには三橋美智也の「達者でナ」(10月)や守屋浩の「有難や節」(11月)もありました。誰が有難かったのでしょうか?2ヶ月で10万枚も売れたので、守屋浩とレコード会社ですかな?この年のレコード大賞(第2回)は松尾和子とマヒナスターズの「誰よりも君を愛す」でありました。

さて、ここからは昭和30年代後半の話に入ります。

昭和36年の4月に、ソ連が人間を乗せた宇宙船を打上げ、地球を1周したというニュースが世界を駆け巡りました。宇宙飛行士第1号のガガーリンは「地球は青かった」と言いました。「えっ?地球って青いの?」今では地球のカラー写真を見て分かるのですが、その頃はその感激の言葉を誰も理解できませんでした。

人間が宇宙に飛び出た時に、NHKのバラエティ番組「夢であいましょう」が始まりました。この番組で、昭和歌謡史上、初めて世界的なヒット曲が誕生します。そうです、坂本九の「上を向いて歩こう」です。レコード発売は10月ですが、テレビでは8月から年末まで毎回歌われていました。この番組では、他にもヒット曲がいくつか生まれています。「遠くへ行きたい」(昭和37年、ジェリー藤尾)、「こんにちは赤ちゃん」(昭和38年、梓みちよ)、「おさななじみ」(昭和38年、デューク・エイセス)、「帰ろかな」(昭和39年、北島三郎)等でございます。

この頃、石原裕次郎は絶好調で、映画「街から街へつむじ風」の挿入歌であった「銀座の恋の物語」(3月)が大ヒットしました。高度経済成長のとば口の時期で、日本国民は池田首相の「私は嘘を申しません」という言葉を信じ、豊かな生活を夢見て額に汗して一所懸命働いたのでございます。忙しいのって何のって、とにかく所得が倍になるのですから、当時流行った渡辺マリの「東京ドドンパ娘」(2月)のリズム「ドドンパ」に乗って、頑張ったのであります。

そんな時に、こんな曲もヒットしましたな。「おひまなら来てよね」(5月)であります。残業残業で暇なんかなかったので、飲み屋に客が寄りつかなかったのでありましょうか?お色気で客引きをしようと、五月みどりは翌年には、もっと無茶を言います。「一週間に十日来い」(昭和37年11月)と、いやはや呆れてしまいますな。お色気の誘惑に負けて、サラリーマンは「ちょいと一杯のつもり」で飲み屋に足を運ぶことになります。そうですよ、植木等の「スーダラ節」(11月)が世相を反映して大ヒットします。植木らクレージー・キャッツは、6月から始まったテレビ番組「シャボン玉ホリデー」に出演して大人気でありました。

「歌声喫茶」が流行ったのもこの頃ですな。労働運動や学生運動とともに「みんなで唄う」ということが連帯感を生み、歌が運動から脱皮して「歌声喫茶」が各地に開店し、特に新宿の「ともしび」や「カチューシャ」は若者たちで賑わいます。ロシア民謡、童謡、唱歌、さらには歌謡曲も唄われるようになりました。「歌声喫茶」で唄われ、歌謡曲として大ヒットした曲と言えば、それは何と言っても「北上夜曲」でしょう。この曲は、実は昭和36年に作られた曲ではなく、なんと昭和16年に旧制中学生の男子生徒2人が作った曲と聞いて、びっくりぽんです。4月にダークダックスが、6月に多摩幸子とマヒナスターズがレコードを発売しております。多摩幸子は、戦後間もない頃の名曲「星の流れに」を唄った菊池章子の妹さんでありましたな。

この年を象徴する流行語に、「巨人・大鵬・玉子焼き」という言葉があります。子供を含め一般大衆が大好きなもののシンボルを表わしておりまして、当時の日本人が楽しげに生活を送り始めたという雰囲気が垣間見えるのであります。10月には、松島アキラの「湖愁」、小林旭の「北帰行」、西田佐知子の「コーヒールンバ」等が発売されています。この年のレコード大賞は、フランク永井が昭和3年の古い曲をリバイバルで吹き込んだ「君恋し」(8月)でした。おっと、忘れてはならないのは、村田英雄の「王将」が12月に発売され、年明けから大ヒットとなり、150万枚も売れましたな。

さて、年明けの昭和37年はどんな年だったのでしょうかな?5月から始まったテレビ番組で、外科医を主人公にした米国ドラマ「ベン・ケーシー」や大阪喜劇の全国放送「てなもんや三度笠」が、とりわけ人気があって高視聴率でありました。家族揃ってお茶の間で視ましたなあ!その頃に巷に流れていた歌謡曲は橋幸夫の「江梨子」(2月)、吉永小百合とマヒナスターズの「寒い朝」(4月)、三橋美智也の「星屑の街」(5月)等でしたな。

夏には、日本国民を感激させた2大ニュースがありました。ひとつは、若い青年が一人でちっちゃなヨットで太平洋を横断したというニュース。これは翌年に市川昆監督、石原裕次郎主演で「太平洋ひとりぼっち」という題で映画化されました。もうひとつは、国産旅客機YS-11が初飛行に成功したというニュースです。ふつうの日本人が高度経済成長でこれからの生活に大きく希望を抱いていた時に、海や空に向かって大きく羽ばたいたというこの2つのニュースが日本人の心にとてもマッチしたのであります。

そんな時に流行った曲に「♪君には君の~♪夢があ~りぃ~♪僕には僕の~♪夢があ~る~♪」の北原謙二の「若いふたり」(6月)とこの年のレコード大賞を受賞した橋幸夫・吉永小百合の「いつでも夢を」(9月)があります。この2曲とも、日本人の夢・心情にぴたっしカンカンだったのであります。

秋になると、いくら夢を持って頑張れと言われても、一所懸命働くうちに打算の気持ちと誠実に生きることとの葛藤、そして毎日の疲れや辛さ、さらにはそれに男と女の問題が絡み、悶々とした生活を送っている人々の物語を描いた曲が出て参りました。北島三郎の「なみだ船」(9月)、倍賞千恵子の「下町の太陽」(11月)、仲宗根美樹の「川は流れる」(11月)でございます。

一方、この人間の世界を茶化したのが、クレージー・キャッツの「無責任一代男」「ハイそれまでよ」(7月)「これが男の生きる道」(12月)や畠山みどりの「恋は神代の昔から」(8月)です。「歌は世に連れる」と言いますが、歌謡曲が当時の世相・人々の心情をしっかりと見事に捉えている典型です。ちょっと気負い過ぎ気味に働き続けてきて、疲れが出てきた日本人でしたが、タフガイの石原裕次郎は健在で、テイチクレコード創業30周年を記念して10月に発売された「赤いハンカチ」が大ロングヒットして、昭和39年1月に映画化されました。流石、裕次郎ですな。

さて、昭和38年に入ります。お正月元旦からテレビアニメ第1号の「鉄腕アトム」が放送されました。この年の暮れには「エイトマン」や「狼少年ケン」も始まりました。もりちゃんはじめ、当時の子供たちはお茶の間で夕飯を食べながら、テレビから眼を離せませんでした。「テレビばかり見てないで、ご飯をちゃんと食べなさい」と叱られたものでございます。3月には、子供たちが恐怖におののいた「吉展ちゃん誘拐事件」、5月には、「狭山(女子高生)殺人事件」が発生しています。

4月にリポビタンDのテレビCMに巨人軍の王選手が登場し、売り切れになる程に宣伝効果があったとか。当時から日本人は働き過ぎで、滋養強壮が必要だったことが分かりますな。滋養強壮に効くのは、ドリンク剤だけでなく、歌謡曲も効くのですよ!「♪や~るぅぞぉ、見てお~れ♪口には~、出さぁ~ず~♪」と袴姿に扇子を拡げる畠山みどりが唄った「出世街道」(1月)は、仕事がツライ人にとって希望と勇気を与えてくれました。この曲、なんと250万枚も売れたのでございますよ!もりちゃんが大好きな曲の一つでありまして、当時毎日小学校の行き帰りに唄っておりました。

6月に黒部ダムが完成し、危険をかえりみず果敢に頑張った労働者や、定時制高校に通いながら仕事をする勤労青年もいたのでございます。「名もない星のように多くの人々がいて、その人々の努力によって日本はどんどん経済成長していく。その多くの人々にささやかな幸せが訪れるように祈っている」と一所懸命働いている人々への温かいメッセージが、5月に発表された坂本九の「見上げてごらん夜の星を」には込められています。星に関係する歌と言えば、島倉千代子と守屋浩が唄った「星空に両手を」が10月に発売されています。

6月に昭和歌謡に新しい青春歌謡の金字塔を築いた曲が発売されます。舟木一夫の「高校三年生」であります。「修学旅行」(8月)「学園広場」(10月)「仲間たち」(11月)と立て続けに発表し、どの曲も大ヒットしました。舟木一夫は、名古屋のジャズ喫茶に松島アキラ・ショーを見に行き、飛び入りで「湖愁」を唄ってスカウトされたといいます。12月には三田明が「美しい十代」でデビューしています。

夏には、翌年開催される東京オリンピックのテーマソングとして「東京五輪音頭」が各レコード会社競作で発売されました。三波春夫のレコードが一番売れたのですが、坂本九、三橋美智也、北島三郎・畠山みどり等もレコードを出していたのです。

秋11月には、伊藤博文肖像の新千円札が発行されました。日米初の通信衛星によるテレビ中継があり、送られてきたのは、なんとケネディ大統領がパレード中に暗殺される映像でした。ショッキングな映像で、当時小学三年生のもりちゃんはテレビの前で鳥肌が立ちました。そう言えば、翌月には、力道山が刺され、1週間後に亡くなりましたなあ!「力道山って不死身ではなかったの?」ともりちゃんは子供心に思ったものでした。

冬には、赤ちゃんをテーマにした曲が巷を流れましたなあ!レコード大賞の「こんにちは赤ちゃん」と一節太郎の「浪曲子守唄」です。可愛い赤ちゃんと不憫な赤ちゃん、このコントラストは、この時が高度経済成長の最初で、まだ全員が中流階級になる前の段階であり、まだまだ貧富の差があったことを物語っています。

そして、東京オリンピックの年、昭和39年がやって参ります。年明けとともに、週刊少年サンデーでは「オバケのQ太郎」の連載が始まり、歌謡曲では明るい曲がヒットします。坂本九の「明日があるさ」です。6月には「幸せなら手をたたこう」も出し、こちらの九ちゃんも絶好調でした。

3月に西郷輝彦が「君だけを」でデビューします。夏には「十七才のこの胸に」(8月)も好調に売れて、橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦の御三家が成立します。デビュー順序から言えば、西郷の代わりに三田明が入ることになる筈ですが、西郷の人気が上回ったということでしょうか?御三家に三田明をプラスすると四天王と呼ぶのですよ。

青春ものというと、井沢八郎の「ああ上野駅」が5月に発売されています。集団就職の就職列車は昭和29年から始まり丸10年が経過していたのであります。この頃の若者はファッションにも興味を持ち始め、銀座のみゆき通りや並木通りに「みゆき族」と呼ばれる若者が大勢たむろしていました。

6月に新潟で大地震が発生し、8月にはベトナムでアメリカが「トンキン湾事件」を仕掛けたことによりベトナムで戦争が勃発するのでは!と緊張が走りました。そんな緊張も束の間で、盆踊りシーズンに入ると、三波春夫の「東京五輪音頭」のレコードが日本中のどの盆踊り会場でもかかっていて、日本人は盆踊りを楽しんでいたのでございます。

何処へ行っても「♪ハァ~ア~♪」と三波春夫の歌声が聴こえて来るので、宿命のライバルの村田英雄としては、黙ってられなかったでしょうな!彼は対抗して8月に「皆の衆」を出します。これがこれが大ヒットとなり、村田英雄としては面目躍如となったのでございます。盆踊り風や民謡調の曲が大流行りとなり、その路線で松尾和子とマヒナスターズの「お座敷小唄」(8月)も大ヒットとなります。いやはや、日本国中、オリンピック気分で浮かれていたのですかな?

同じ頃、新川二朗の「東京の灯よいつまでも」が発売されています。この曲、東京オリンピック絡みの曲だったってご存知ですかな?オリンピックを終えて帰国して行った外国人女性選手への想いを込めた曲なのですよ。オリンピック開催で東京の街は、首都高速が縦横に作られ、羽田空港にはモノレールが走り、超近代的なビルが立ち並ぶ、ニューヨーク、ロンドン、パリに並ぶ国際大都市になっていました。はい、そこで都会ムードたっぷりの大人の曲が登場します。ザ・ピーナッツの「ウナ・セラ・ディ東京」や越路吹雪、マヒナスターズ等の「ワン・レイニー・ナイト・イン東京」でございます。

秋には都はるみが「アンコ椿は恋の花」(10月)で、冬には水前寺清子が「涙を抱いた渡り鳥」(12月)でデビューしております。歌声喫茶等でみんなが合唱できる岸洋子の「夜明けのうた」(9月)やペギー葉山の「学生時代」(12月)も流行りましたな。この年のレコード大賞は、「ペコとポコ」ではなくて、「ミコとマコ」の悲しい物語、青山和子が唄った「愛と死を見つめて」でございました。

(注)この文章の無断転載をなさらないよう、よろしくお願い申し上げます。