もりちゃんの昭和歌謡ウンチク(昭和40年代の歌謡曲

昭和40年に入りますと、オリンピックが終わり、日本は不況に襲われます。5月に大手証券会社が倒産の危機を迎えます。この証券会社、この時は田中角栄大蔵大臣が日本銀行から特別に融資を行うように動いて危機を脱出したのですが、それから三十余年後の平成9年(1997年)には、就任4ヶ月目の社長が「社員は決して悪くはありませんから」と大泣きして、今度は本当に潰れてしまいました。大きな製鉄会社も倒産して、戦後最大の倒産と言われました。

この年に起こった不況は深刻で、政府は大型の財政出動を余儀なくされ、財政法を改正して、初めての赤字国債の発行に手を染めてしまいます。これが、50年後の今、1000兆円の財政赤字に膨れ上がったのでありますよ。一旦、手を染めてしまうと麻薬のように止められずに、国債を乱発してしまったのですかな?

この年の秋に「遺憾に存じます」という曲をクレージー・キャッツが出していますが、誠にそのとおりでございます。クレージーは、新入社員が入社する4月に「ゴマスリ行進曲」という曲も出していますが、この頃から日本のサラリーマンは、ゴマスリを人生の処世術としていたのですかなあ!いやはや、このゴマスリ、今もサラリーマンだけでなく、政治家の世界でも、立派に日本の伝統芸(?)になってしまっています。トホホッですな。

そのようなサラリーマンや政治家とは違って、同じ労働でも貧しい家計を助けるべく真面目に額に汗して健気に働く若者がいたのです。「♪僕の~アダナを知っ~てるかい♪朝刊太郎って~云うんだよ~♪」と山田太郎が唄う「新聞少年」(5月)です。もっと厳しい労働をして頑張っている母ちゃんの姿もありました。「♪おっ母ちゃんのた~めなら~、エ~ンヤコ~ラ♪」の丸山明宏(現・美輪明宏)の「ヨイトマケの唄」(7月)です。

また、出稼ぎや集団就職で東京に出て来て、田舎に帰りたいと思っていた労働者も沢山いたのであります。その気持ちを唄った北島三郎の「帰ろかな」(5月)もヒットしましたなあ。サブちゃんと言えば、「兄弟仁義」(5月)や「函館の女」(12月)も、この年にヒットさせています。

この年には、前年から流行っていた都会的なムードの曲の流れを汲む新曲が続々と登場しました。倍賞千恵子の「さよならはダンスの後で」(4月)、石原裕次郎の「二人の世界」(5月)、アイ・ジョージと志摩ちなみの「赤いグラス」(7月)、西田佐知子の「赤坂の夜は更けて」(12月)といった大人の名曲が生まれています。

もう今ではナイトクラブは無くなってしまって、チークダンスをナイトクラブで踊るなんて、どんな大人の世界だったのか想像できませんが、おそらく石原裕次郎の映画に出てくるようなミラーボールが輝き、ビッグバンドの演奏が流れる雰囲気だったんでしょうな、そんなナイトクラブでチークダンスを踊ってみたいですなあ!
ナイトクラブに通い始めたりなんかすると、そこのホステスと「愛して愛して愛しちゃったのよ」(唄:田代美代子とマヒナスターズ、6月)なんてことになってしまうってことですかな?そうそう、大人の世界と言えば、テレビ番組「11PM」が始まったのは、この年の11月からでありましたな。

この年も九ちゃんは、依然元気にヒットを続けていました。3月に「ともだち」、5月に「涙くんさよなら」、9月に「レットキス(ジェンカ)」を発売し、3連打の連続ヒットを飛ばしています。野球で言えば、猛打賞ものです。当時、もりちゃんは可愛い小学生でしたが、運動会や子供会等で、よくジェンカを踊ったことがあります。懐かしいですなあ!ジェンカは、子供の世界の踊りだったのですな。

アメリカが遂に北ベトナムに北爆を開始した2月に、日本では二宮ゆき子の「まつのき小唄」が発売されました。子供も唄ってましたな。「♪松の木ばかりが~松じゃない~♪おそ松、とど松、じゅうし松~♪」いや、違いましたな。漫画「おそ松くん」のイヤミのシェーが流行り、この年公開の映画「怪獣大戦争」でゴジラがシェーをする程、シェーが流行りました。これまた懐かしいですなあ!

この年は、バーブ佐竹の「女心の唄」(1月)や笹みどりの「下町育ち」(10月)等の女性の心をテーマにした曲が流行りました。その中でもデューク・エイセスの「女ひとり」(6月)は、その極め付けの曲と言ってよいでしょう!

年末には、都はるみの「涙の連絡船」(11月)が大ヒットしました。そして、この年のレコード大賞に輝いたのは、女性歌手の大御所美空ひばりの「柔」でありました。

はい、次に昭和41年でございます。年明けにテレビ番組「ウルトラQ」が始まりました。もりちゃんを含め、当時の子供たちは日曜日の夕飯時にテレビの前に釘付けになったのでありました。加山雄三の「君といつまでも」が流行ったのはこの頃です。鼻をこすりながら「ボカぁ~、しあわせだなぁ~」のセリフが印象的でしたなあ。この後、加山雄三は「お嫁においで」(6月)「旅人よ」(10月)と立て続けにヒットを飛ばしています。

2月4日に札幌の雪まつりから帰る乗客を乗せた全日空のボーイング727が羽田沖に墜落します。1ヶ月後の3月4日には、カナダ航空のDC8が羽田空港の堤防に衝突、その翌日5日には、その残骸の横を離陸して行ったBOAC航空のボーイング707が富士山上空で空中分解して墜落しました。11月には、四国の松山空港沖にて、全日空のYS11が墜落しました。この年は、ホントに航空機事故が多い年でした。成田に国際空港を建設するのが決まったのは、この年の7月でありましたな。

そう言えば、三田明が前年11月に「若い翼」というパイロットをテーマにしたレコードを発売して、NHK紅白歌合戦に出場してカッコいい紺の制服に帽子を被ったパイロット姿で唄ったのを思い出しました。それも束の間で、このように飛行機事故が立て続けに起こったので、唄えなくなってしまったのでありました。

この年は、日本の音楽史にとって記念すべき出来事がありました。そのひとつは、6月に英国からザ・ビートルズが来日し、日本武道館で公演を行ったのであります。エレキブームは、ビートルズよりも前に、ベンチャーズによって巻き起こされ、日本中のお兄ちゃんがエレキギターを買い求め、テレビでも「勝ち抜きエレキ合戦」なる番組を見てエレキギターの腕を磨くという現象が起きていましたが、エレキギター演奏にボーカルを付けたビートルズは、世界中に衝撃を与え、「ブリティッシュ・イノベーション」と言われたのでございます。

ザ・ビートルズに影響を受け、日本でもザ・サベージの「いつまでもいつまでも」(8月)、ザ・スパイダースの「夕陽が泣いている」(10月)やザ・ワイルドワンズの「想い出の渚」(11月)が出てきます。グループサウンズ(GS)の初期段階です。それと、ベンチャーズは度々来日し、日本の歌謡曲に曲を提供し始めます。その第1号が、和泉雅子と山内賢の「二人の銀座」(11月)です。

ふたつ目は、ハスキーボイスという特徴ある唄い方の歌手が、男性歌手と女性歌手がほぼ同時にデビューしたことであります。「恍惚のブルース」(6月)の青江三奈と「女のためいき」(8月)の森進一で、「ためいき路線」と呼ばれましたかな。「ためいき・イノベーション」とでもいうべき、驚きの歌唱法の登場でありました。

みっつ目は、都会的なムードある大人の世界の曲に、ちょっと毛色が変わった曲が登場したことであります。その曲とは、黒沢明とロス・プリモスの「ラブユー東京」(4月)でございます。ロス・プリモスは、ラテンの要素を取り入れたモダンなグループで、それまでのマヒナスターズのハワイアン風とは違ったムード歌謡コーラスグループの世界を提供したのであります。この時期に和田弘とマヒナスターズは松尾和子と「銀座ブルース」(5月)を出していますが、ロス・プリモスが登場したことによって、この後にラテン風を基調とした鶴岡雅義と東京ロマンチカやロスインディオスも登場し、昭和40年代前半のムード歌謡コーラス・ブームが始まることになったのであります。

よっつ目は、フォークソングがヒットし始めます。マイク真木の唄った「バラが咲いた」(5月)や映画監督黒澤明の息子黒澤久雄がリーダーのザ・ブロードサイド・フォーの「若者たち」(9月)が発売され、じわじわと人気が高まりました。

この年にも星に関する曲がいくつか出ています。千昌夫の「星影のワルツ」(1月)、西郷輝彦の「星のフラメンコ」(6月)、荒木一郎の「空に星があるように」(9月)です。日本人は星の唄が好きですな。荒木一郎は「今夜は踊ろう」(11月)も出しています。

この年のNHK連続テレビ小説は、「おはなはん」で平均視聴率は45.8%、最高視聴率は56.4%だったということで、びっくりぽんでございます。この人気にあやかって、倍賞千恵子が「おはなはん」(8月)のレコードを発売しておりますな。びっくりぽんな話と言えば、あの美川憲一が「柳ケ瀬ブルース」(5月)でデビューしております。デビューの時は、オカマ姿ではなく、髪を七三に分けて、背広を着て、ほぼ直利不動で、男性歌手として唄っておられたのでありますよ。今の姿を誰が想像したでありましょうや?

年末にかけて、「困っちゃうナ」(11月)で山本リンダが15歳でデビューし、水前寺清子の「いっぽんどっこの唄」(11月)、園まりの「夢は夜ひらく」(11月)、布施明の「霧の摩周湖」(12月)が発売されています。そして、年末のレコード大賞の候補として、下馬評では舟木一夫の「絶唱」(10月)、美空ひばりの「悲しい酒」(8月)とかが噂され、歌謡ファンは固唾を呑みながら注目致しました。しかし、大方の予想が外れ(?)、審査員の投票結果は、橋幸夫の「霧氷」(10月)が「無票」どころか最多得票で大賞を獲得したのでありました。2月に出した「雨の中の二人」は売れましたけど、「霧氷」って売れましたっけ?(もりちゃんの個人的意見です)。

次は、昭和42年、年の初めから、女性歌手が大活躍します。最初に森山良子が女性フォークシンガー第1号として「この広い野原いっぱい」で登場しました。8月には「今日の日はさようなら」も出して、人気急上昇となりました。2月には、カバー・ポップスやカンツォーネを唄っていた伊東ゆかりがイメージチェンジを図り、ラテン風ビッグバンドにストリングスを入れたスケールのある編曲によって大人のムードを醸し出す「小指の想い出」を発表、そのヒットを受けて「あの人の足音」(9月)も好調でした。同じ2月には、ミニスカートの黛ジュンがGSサウンドをベースにした和製ビート・ポップス歌謡「恋のハレルヤ」で鮮烈なデビューをしたのであります。7月には「霧のかなたに」も出してヒットしました。

この頃、これまでの高度成長による社会の歪みが出てきたために、公害や交通戦争等をはじめ日常生活に様々な問題が発生し、世の中が社会を批判的に見るようになって参りました。テレビ・ラジオ等で「お茶の間経済学者」として主婦に絶大なる人気があった美濃部さんが、4月に東京都知事になって「革新都政」が誕生し、東京都では老人の医療費や都営交通の無料化が実施され、公営ギャンブルである競輪・競馬・競艇・オートレースのすべてが廃止されました。

そんな新しい時代の流れの中、若者のエネルギーはGS(すみません。ガソリン・スタンドではありません)によって発散されるのであります。ジャッキー吉川とブルーコメッツの「ブルーシャトウ」(3月)「北国の二人」(9月)、ザ・タイガースの「僕のマリー」(3月)「シーサイド・バウンド」(5月)「モナリザの微笑」(10月)、ザ・スパイダースの「なんとなくなんとなく」(4月)「いつまでもどこまでも」(10月)、ザ・ジャガーズの「君に会いたい」(6月)、ザ・ゴールデンカップスの「いとしのイザベル」(8月)、ザ・カーナビーツの「好きさ好きさ好きさ」(6月)、ヴィレッジ・シンガーズの「バラ色の雲」(8月)、ザ・スウィング・ウエストの「恋のジザベル」(10月)、ザ・テンプターズの「忘れ得ぬ君」(10月)等々、目白押しに発売されました。いやはや、このGSのラッシュは若い女の子たちを凄く熱狂させたのであります。

その熱狂の渦の中に、歌謡界の大御所・女王が飛び込んだのでありますぞ。そうです!「真っ赤な太陽」(6月)でございます。美空ひばりとブルーコメッツの組み合わせを誰が考えたのでありましょうや!「じぇじぇじぇ~!」と老若男女を驚かせたのでございます。

このような情況の中、歌手生命を賭けて、再起を図る歌手がおりました。輝かしい第1回レコード大賞を受賞した水原弘です。もう受賞から8年も経っており、高慢な性格と酒好きで仕事は減り、そして挙句の果てに賭博によって芸能界を追放され、悲惨な生活をしておったそうです。念願かなって2月に「君こそわが命」を出して大ヒットしました。しかし、その後また売れなくなって、酒は辞められず、10年後に肝臓を壊して42歳の厄年に亡くなってしまいます。歌手稼業は水商売と同じなんですな。そう言えば、彼の愛称は「おミズ」でしたな。合掌。

悲しいお話の続きに、「こんな悲しい窓の中を雲は知らないんだ。どんなに空が晴れたってそれが何になるんだ。大嫌いだ、白い雲なんて」という悲しい歌があったことを思い出してしまいました。美樹克彦の「花はおそかった」(4月)であります。「かおるちゃん」と「バカヤローッ!」が印象的でしたな。

切実な恋の話であれば、布施明の「恋」(3月)という曲もありましたな。暗い恋愛の曲ばかりヒットした訳ではありませんよ。明るい曲もありました。佐良直美の「世界は二人のために」(6月)が120万枚も売り上げ、レコード大賞の新人賞を獲得しました。

前年の11月に新宿駅の西口ターミナルが出来上がり、新宿が戦前のイメージから大きく変わりました。それに伴い、新宿をテーマにした歌謡曲がこの年に発表されます。扇ひろ子の「新宿ブルース」(3月)と大木英夫と津山洋子の「新宿そだち」(10月)でございます。前者は演歌風、後者はモダンなルンバ風の曲でありました。

この頃からですかな?スナックやバーの飲み屋から有線放送で、歌謡曲をリクエストするのが盛んになりましたな。特に、水商売のおネエさん方には、甘いボーカルのムード歌謡コーラスグループは人気があり、東京ロマンチカの「小樽のひとよ」(10月)やロス・プリモスの「雨の銀座」(12月)が、リクエストとともにじわじわっとヒットしたのでありましたな。

放送と言えば、ラジオ放送では、深夜放送でTBSラジオの「パックインミュージック」(7月)やニッポン放送の「オールナイトニッポン」(10月)が始まりまして、旺文社の「大学受験ラジオ講座」を聴き終わった受験生たち(団塊の世代)が、受験勉強をしながら聴いたのでありましたな。受験勉強がたけなわになる年末に、けったいな曲が巷に流れ出しましたなあ!レコードの早回しのような声で「♪オラは死んじまっただ~♪」とザ・フォーク・クルセダースが唄う「帰ってきたヨッパライ」であります。ちなみに、レコード大賞は、この年の音楽現象を象徴すべきGSの「ブルー・シャトウ」でございましたな。

次は、昭和43年でございます。この年は年明けから悲しいことが起こりました。今年の秋にメキシコで開催されるオリンピックで、男子マラソンの優勝候補として期待されていた円谷幸吉さん(東京オリンピック銅メダリスト)が自殺を図ったというニュースが流れ、非常に心が痛みましたな。もりちゃんの心の中では、何故か「♪夕焼~けの空~に~♪あいつが~燃えてい~る♪」と唄って「帰ってきてぇ~!」と絶叫する泉アキの「夕焼けのあいつ」(2月)のあいつが円谷選手と重なってしまいました。この曲も黛ジュンの系統を引く「GS歌謡」でございましたな。

映画出身のカワイコちゃん女優二人が歌手としてヒットを飛ばしましたなあ。小川知子と中村晃子でございます。中村晃子は前年の秋にデビューし、GS歌謡アレンジの「虹色の湖」がヒットし、一方小川知子は伊東ゆかり風のアレンジで「ゆうべの秘密」(2月)を発売し、そのレコードジャケットの写真があまりにも可愛くて、いきなりヒットチャートに入りました。先輩の伊東ゆかりは、「恋のしずく」(1月)「星を見ないで」(6月)「朝のくちづけ」(10月)、黛ジュンは、「乙女の祈り」(2月)「天使の誘惑」(5月、この年のレコード大賞受賞曲!)「夕月」(9月)と快調に連続ヒットを飛ばしました。

GSは絶頂期でありましたな。ヴィレッジ・シンガーズの「亜麻色の髪の乙女」(2月)、ザ・テンプターズの「神様お願い」(3月)「エメラルドの伝説」(6月)、ザ・スパイダースの「あの時君は若かった」(3月)、ザ・ゴールデンカップスの「長い髪の少女」(4月)、パープル・シャドウズの「小さなスナック」(5月)、ザ・タイガースの「君だけに愛を」(1月)「花の首飾り」(3月)「シー・シー・シー」(7月)、女の子がキャーキャー言ってオシッコを漏らしてしまう程に失神させるオックスの「ガールフレンド」(5月)「スワンの涙」(12月)等々、いやはやスッゴイ盛り上がりでございました。

同じ男性のグループであるムード歌謡コーラスグループの方も、絶好調でありまして、東京ロマンチカは、「旅路のひとよ」(7月)、ロス・インディオスの「コモエスタ赤坂」(6月)「知りすぎたのね」(8月)、黒沢明とロス・プリモスの「恋の銀座」(1月)「たそがれの銀座」(5月)「さようならは五つのひらがな」(12月)と既存のグループが快調にヒットを飛ばし、そして新しいグループの沢ひろしとTOKYO99の「愛のふれあい」(3月)、中井昭・高橋勝とコロラティーノの「思案橋ブルース」(4月)が登場したのでございます。

そうそうグループと言うと、忘れてならないのが、「恋の季節」でピンキーとキラーズが7月にデビューしております。「グッドナイト・ベイビー」(5月)のキングトーンズのオジサンたちも出てきましたな。二人組も活躍しましたな。「愛するってこわい」(7月)のじゅんとネネ、そして「愛の奇跡」(10月)のヒデとロザンナです。「♪ティア~モ、♪ティア~モ、♪ティア~モ!」(愛してる)が耳に残ってますな。

テレビ番組で思い出すのが、春に始まった2つの番組。ひとつは、アニメ「巨人の星」です。子供だけでなく大人も、眼の中の炎を見ながら感動しましたなあ!飛雄馬がボールを投げて伴捕手が捕球するまで、なんであんなに時間がかかるのか、不思議でありました。ふたつ目は、「キイハンター」です。丹波哲郎、千葉真一、野際陽子、谷隼人が出演する国際警察諜報部員の物語で、男を投げ伏せる格闘術を披露してお茶の間をびっくりさせた野際陽子が主題歌「非情のライセンス」(5月)を唄ってヒットしましたな。

演歌では、青江三奈と森進一のハスキーボイスの「ためいきコンビ」が好調で、青江は「伊勢佐木町ブルース」(1月)「長崎ブルース」(7月)、森は、「花と蝶」(5月)「年上の女」(12月)と連続ヒットを飛ばしていました。同じハスキーボイスの男性歌手が新たに登場しました。「あなたのブルース」(9月)の矢吹健です。B面の「うしろ姿」もヒットしました。

フォークソング系も頑張っていました。ザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」(2月:発売禁止)「悲しくてやりきれない」(3月)「青年は荒野をめざす」(12月)、岡林信康の「山谷ブルース/友よ」(9月)、フォー・セインツの「小さな日記」(10月)等が人気を博しておりました。それから高石友也の「受験生ブルース」(3月)が深夜放送から流れていましたな。

学生がベトナム戦争反対、成田空港建設反対、授業料値上げ反対等を訴え、ヘルメットを被りゲバ棒を持って、大学構内だけでなく、街頭でのデモを繰り広げ、5月頃から日大や東大等では大学構内や建物をバリケード封鎖する動きが出てきました。特に東大の安田講堂が6月から学生たちに占拠されてしまいました。この学生運動は、日本だけでなく世界的な動きであったのでありますな。

7月に郵便番号制度がスタートし、8月には日本で初めての心臓移植手術が行われております。そして10月には川端康成がノーベル文学賞を受賞したというニュースが流れました。川端先生、素晴らしい賞をもらって、「今は幸せかい」って訊くまでもなく、幸せだったでしょう!この月に佐川満男は、この曲で見事カムバックして幸せだったにちがいありません!彼はこのカムバックにより、後に伊東ゆかりと結婚したのでありますから・・・。

でも、後に離婚しちゃいましたな。「好きになった人」でも別れることがあるのでございます。この頃に発売した都はるみの久々のヒット曲ですな。とにかく人生というものは、「ワンツー・パンチ」なのでございまして、「♪三歩進んで二歩下がる♪」ことを繰り返しながら進むのでございます。水前寺清子のパンチある歌声で「三百六十五歩のマーチ」が巷に高らかに流れたのも、この頃でございましたな。

そして、せわしい師走に、日本中の度肝を抜いた事件が起こったのであります。ボーナスを積んだ現金輸送車が狙われた「三億円事件」であります。未解決事件のままですが、あの三億円は、誰が盗んだのでしょうね?

はいはい、次は昭和44年でございます。お正月気分が抜けた頃、バリケード封鎖されていた東大の安田講堂に機動隊が入って、立て籠もっていた学生たちとの攻防戦がテレビ中継されました。結局、機動隊に軍配が上がり、学生紛争に一区切りが着きました。安田講堂の中はもうグチャグチャで、この年の東大入試は中止され、前代未聞の事態となったのでございます。

そんな折、新しい感覚の歌謡曲が大ヒットしました。前年末に発売されたいしだあゆみの「ブルーライトヨコハマ」でございます。いしだあゆみの小唄風の唄い廻しに、GS歌謡から変化を遂げた筒美京平の斬新で華麗な曲調がマッチして、当時中学2年生のもりちゃんは痺れてしまいました。小川知子の「初恋のひと」(1月)にも痺れましたなあ!

前年の11月から月曜の夜10時に始まった歌番組「夜のヒットスタジオ」(司会:前田武彦・芳村真理)で、もぐらのお兄さんがコンピュータで歌手の恋人を抽出する「コンピュータ恋人選び」コーナーというのがありまして、いしだあゆみや中村晃子が唄っている途中で泣き出して話題になっておりました。

その矢先、2月24日の放送で小川知子が「初恋のひと」の唄い出しから突然号泣したのでございます。小川知子は福沢諭吉のひ孫のレーサー福沢幸雄氏とお付き合いをしていたのですが、その彼が12日にテスト走行中に事故死したのです。突然「初恋のひと」を亡くしたショックで、テレビの本番中に泣き出してしまったのであります。つらいつらいお話なので、テレビを見ていたもりちゃんはじめ、多くの人が悲しくなったのでございます!

「夜のヒットスタジオ」は、女性歌手の号泣の直後に、最高視聴率が42%にもなったといいますから、日本中の約半分近くの家族が茶の間の炬燵に入って見ていたのでありますな。もりちゃんの家族もそうだったのですな。この番組にレギュラー出演していた歌手は、どういう訳か、鶴岡雅義と東京ロマンチカだけでした。おそらく人数が多いので歌謡ドラマでの通行人役とかの配役に便利だったのでありましょう。ロマンチカは、レギュラー出演したこともあって人気が上がり、「君は心の妻だから」(3月)「星空のひとよ」(6月)「北国の町」(9月)とヒットを放ちました。

この頃にムード歌謡コーラス・グループ人気にあやかり、また新たなグループが出てきました。内山田洋とクールファイブが「長崎は今日も雨だった」(2月)でデビューしたのであります。「ムード歌謡コーラス・グループの定義は、ハワイアンかラテンの出身をいうので、クールファイブはR&B(リズムアンドブルース)出身なので、ムード歌謡コーラス・グループではない」と固いことをいう人がいますが、そのことは措いておいて、クールファイブは「わかれ雨」(7月)「逢わずに愛して」(12月)とヒットを連発します。

このように、この年もムード歌謡コーラス・グループは好調であったのですが、不思議なことにGSが、ピタッと姿を消してしまったのであります。グループ・バンドで元気だったのは、ピンキーとキラーズですかな?「涙の季節」(1月)「七色のしあわせ」(4月)「星空のロマンス」(8月)とヒットを続けていました。

フォークソング系も、バリエーションが出てきましたな。ザ・フォーククルセダースのメンバーの端田宜彦が新たなグループはしだのりひことシューベルツを結成し、「風」(1月)を発表します。他にも新しいグループが出てきました。ビリーバンバンの「白いブランコ」(1月)、前年に出したB面の曲「遠い世界に」がジワジワと売れ出した五つの赤い風船が5月にA面に変えて再発売、ベストセラーとなった高野悦子の日記「二十歳の原点」にも訳詞が引用されていたマイケルズの「坊や大きくならないで」(2月)、これはベトナム反戦歌でしたな。それから、トワ・エ・モアの「ある日突然」(5月)、ウッディ・ウーの「今はもうだれも」(9月)、ベッツィ&クリスの「白い色は恋人の色」(10月)等であります。

グループ以外では女性フォークシンガーの高田恭子の「みんな夢の中」(4月)、世界的な学生運動を背景にしてできた曲「フランシーヌの場合」(6月)は新谷のり子が唄いました。フォーク系と思いきや森山良子が「禁じられた恋」(3月)という歌謡曲を唄い、加藤登紀子が「ひとり寝の子守唄」(9月)をヒットさせました。

この年の特徴的な新人女性歌手としては、カルメン・マキが「時には母のない子のように」で2月に、由紀さおりが「夜明けのスキャット」で3月にデビューし、千賀かほるの「真夜中のギター」とアン真理子の「悲しみは駆け足でやって来る」が、人類が宇宙船アポロ11号で初めて月に降り立った夏に発売されています。「あなたの心に」(10月)の中山千夏もいましたな。

もっと特徴的な女性歌手を忘れてはいけませんな。一人は、「どしゃ降りの雨の中」(5月)の和田アキ子、雨続きで「雨に濡れた慕情」(7月)のちあきなおみ、「新宿の女」(9月)の藤圭子、それから「夜と朝のあいだに」のピーター、おっと、ピーターは男でした。男では、「熱海の夜」(2月)の箱崎晋一郎ですかな?この人の唄い方は、オカマっぽかったですな。

「ためいきコンビ」は、森進一は「港町ブルース」(4月)、青江三奈は「池袋の夜」(7月)で、依然好調でありました。それから、すっごく女性らしさと歌唱力を発揮した歌姫がおりました。「人形の家」(7月)の弘田三枝子、「雲にのりたい」(6月)の黛ジュン、「知らなかったの」(2月)の伊東ゆかり、そして、この年のレコード大賞を獲得した「いいじゃないの幸せならば」(7月)の佐良直美であります。

この昭和44年は、歌謡曲の幅が広がり、実に様々なバリエーションの曲が沢山登場し、ヒットしました。その中でも、当時最大のレコード売上げを誇ったのが、今の宅急便の如く(?)日本中の隅々にまで届いた可愛い歌声、そうです!当時6歳の皆川おさむが唄った「黒ネコのタンゴ」であります。なんと、260万枚も売れたのですぞ!レコード売上げの新記録でした!いやはや凄いですな!

昭和40年代は、曲数が多いので語り切れませんな!ちょっと疲れてきましたので、もりちゃんの昭和歌謡ウンチクは、これくらいにしておきますかな?これ以降の時代のウンチクも含めて、いつか本に纏めて、皆様にお届けしたいと思っております。どうも、長時間お付き合いいただきまして、ありがとうございました。

(注)この文章の無断転載をなさらないよう、よろしくお願い申し上げます。