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童謡、民謡、そして昭和歌謡への流れ(13) 雨情少年と小川芋銭


もりちゃんは、野口雨情さんの少年時代を語っています。雨情少年は、俳句に熱中していました。雑誌への投稿や句会にも積極的に参加していたようであります。俳句を通して次第に大人たちとの交流を深めていくのでありますな。その頃に知り合った大人の一人に、日本画家で独特な水墨画表現によって「河童(カッパ)」の絵を多く描いた茨城牛久出身の小川芋銭(おがわうせん:1868-1938年)さんがおられます。


芋銭さんは当時32歳、雨情少年は17歳でありました。芋銭さんは、明治30年頃、東京から牛久に戻って農村で晴耕雨読のような生活をしながら、水戸の日刊新聞「茨城日報」「いはらき」や「ホトトギス」などの雑誌に漫画を投稿しておりまして、ちょうど俳句を始めたばかりでございました。


雨情少年は、夏休みや冬休みには、北茨城の磯原の実家に帰っては、東京に戻る際に、水戸のいはらき新聞社の記者で句会のメンバーであった藤田順吉さんのところに立ち寄ったりしてました。たまたま、芋銭さんが新聞社に来ていて、雨情少年は順吉さんから芋銭さんを紹介されたのです。芋銭さんは牛久に帰るところだったので、東京に帰る雨情少年は、一緒に汽車に乗るように勧められ、芋銭さんと車中の人となったのであります。


芋銭さんは、しばらく経って大正6年(1917年)50歳の時に、あの横山大観さんや菱田春草さんらの日本美術院の同人になっておられますが、大観さんらとは考え方がちょっと違ってました。芋銭さんには、大観さんらの「西洋的な空間を日本画に取り入れる」というような考えはなかったようであります。田舎の牛久に住んで、沼や山や田んぼという自然や風土にどっぷり浸かった生活を送り、その長閑な農村生活や河童が出てきそうな田園風景の幻想的な雰囲気の中に桃源郷を見出し、ときたま遠いところへ旅に出たりしながら、自己の内面の奥深い精神空間において、人間と自然の本質的な関係を軽妙に描いて生きたいという考えがあったようですな。



投稿者 tuesday : 2006年09月24日


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