古賀政男から美空ひばりまで昭和歌謡の名曲を慰問演奏。音楽ボランティアグループ“おもひでチューズデー”


































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童謡、民謡、そして昭和歌謡への流れ(40) 雨情さんは恐妻家?

雨情さんは、「枯草」を出版した後、その年は、雑誌「スケッチ」や「読売新聞」等に積極的に詩を投稿したり、俳句会「潮響会」を立ち上げたり、ちょくちょく東京に行っては雑誌社や詩の仲間に会ったりして、それなりに一生懸命努力をしておられたようであります。


その頃の雨情さんは、時折磯原から水戸に出てきては、いばらぎ新聞の記者を誘っては駅前の松風館という料理屋で芸者をあげて飲めや唄えやで楽しんでいたようでありますな。雨情さんは「小旦那、小旦那」と芸者や仲居から呼ばれて、結構モテたようだっだとか。ある芸者さんと馴染みになり、結構深い仲になったようでありまして、二人で泊り込みで出掛けたりもしたようですな。所謂憂さ晴らしでありますかな。雨情さんも人の子でありますな。


その年の夏には、長男が産まれていますが、雨情さんは、新婚さんであったにもかかわらず、水戸や東京に出掛けてばかりだったようですな。その雨情さん、翌年の明治39年(1906)4月に、突然というべきか計画的というべきか、「われ故山を去る」という書置きを残して家を出てしまいます。ありゃまぁですな。雨情さんは栃木の友人の家に居候をしたようです。


雨情さんはいばらぎ新聞の記者にこう言っていたらしい。「きみの奥さんは、女らしい奥さんでやんすね。きみはいいでやんすね。羨ましいでやんす。」その新聞記者は「雨情さんは、妻ひろさんの前では、ヘドモドするばかりだった」と言っておられます。どうやらいろいろ穿鑿してみると、雨情さんは正直者だったらしく、ひろさんと結婚した夜、つまり初夜に、ひろさんに「わすには、愛人が居るんでやんす」と言ったらしいのですな。これまた、ありゃまぁですな。雨情さん、そんなこと白状するのであれば堂々としてりゃいいのに、正直な人ゆえに、恐妻家となってしまったようですな。ご愁傷様であります。




投稿者 tuesday : 2007年02月18日


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