啄木さんは、10月14日の日記にこう記しています。
<初号編輯の日の急がしさ。夜午前二時やうやう帰宅せり。職工は多く既に三四日も徹夜なり。>
編集が間に合わなくて、雨情さんや啄木さんは毎日遅くまで、新聞社で働いていました。その忙しい日々の間、雨情さんの引っ越しがあったのです。雨情さんや啄木さんたち記者や編集者は、まだ帰宅できたからよかったのでありましょう。彼らが遅くまでかかって書いた記事を活字に組まなければならない職工さんたちは、人数が足りなくて連日徹夜で大変だったようでありますな。
明治40年(1907年)10月15日、ついに小樽日報初号が発刊となりました。その日の様子を啄木さんは日記に書いています。
<一天朗らかに晴れて風なく、心気爽々たり、
小樽日報初号発刊の日、
正午の頃に至りて刷上れり、凡て十八頁、楽隊を先立てゝ市中の配達は景気よく終れり、
午後五時より社主中村定三郎氏より招待されて一同静養軒にて祝宴を張る。七時半、職工一同楽隊と共に提灯行列を初め、静養軒前に来て万歳を連呼す、我等飛び出して共に提灯ふりかざし市中を練り歩けり
市中の景気大によし、>
小樽日報の初号は、楽隊、すなわち煌びやかな服装をして大小の太鼓・コルネット・クラリネット・トロンボーン等の西洋楽器を演奏する「ジンタ」を先頭にして、小樽市中で売られたのでありますな。おそらく、小樽市中の子供たちが、ぞろぞろと後をついていたにちがいありません。ポチやミケもついていたと思います。お祭りのような騒ぎだったでしょうな。「配達は景気よく終れり」とありますが、新聞は完売だったのでありましょうか?徹夜をしてお昼までかかって初号を刷り上げた職工たちは、眠気も忘れ、提灯行列までもして練り歩いた末、宴会を催して祝杯を挙げてご機嫌の社主、雨情さんや啄木さんたち記者や編集者と合流し、万歳三唱をして気勢を上げたのであります。いやはや、彼らが歓喜する光景が目に浮かぶようでありますな。
「やりましたっぺ!」
「そうですね」
「啄木さん、これからでやんす」
「頑張りましょう!雨情さん」
万歳三唱の後、雨情さんと啄木さんが、ジンタの演奏に合わせて踊りまくる職工さんたちを眺めながら、初号発刊の達成感と明日からの未来への抱負を胸一杯に感じていたに違いありません。
投稿者 tuesday : 2008年09月23日 |