啄木さんは、次の詩をこの時の出来事を思い出して書いたのでありましょうか?
殴らむといふに
殴れとつめよせし
昔の我のいとほしきかな
啄木さんは、小林寅吉事務長に殴られたその夜、家に帰らず、丁度一か月前に啄木さんの紹介により入社し、編集長になった沢田信太郎氏の家に駆け込んでいます。啄木さんは、殴られるに至った経緯を沢田氏に涙ながらに語ったに違いありません。
「畜生!あの小林め!暴力を振るうなんて、最低だ!私が少し会社を休んだからといって、殴るなんて、ひどい奴だ!」
眼に涙をいっぱいに溜めながら、啄木さんは沢田氏に小林寅吉の暴力を訴えていました。
「白石社長に事情を説明しましょう」
沢田氏は、落ち着き払った感じで、啄木さんの話を聞いていました。
「もう辞めてやる!」
「啄木さん、早まってはいけません!」
おそらく沢田氏は、小林寅吉事務長に事実確認をしたうえで、白石社長に説明をしたのでありましょう。きっと、沢田氏は編集長として、啄木さんの無断欠勤癖は抗弁できないと、冷静な判断をしたと思われます。明治40年12月21日の小樽日報に、啄木さんの退社広告が掲載されました。
<小生本日を以て退社候也
二十一日 石川啄木
猶小生に御用の方は区内花園町畑十四番地(月見小路)に御申越下度候 >
22日には、編集長沢田氏によって「石川啄木兄と別る 沢田天峯」と題して惜別の辞が発表されております。啄木さんは、この記事をどう思いながら読んだのでありましょうかな?
<文壇に於ける啄木兄の文名は余夙(つと)に之を記せり。其の肇めて親炙せるは函館に於ける苜蓿社同人の会合の席なりとす。爾来兄は北門社に往き更に日報社に転ずるに及で、余は蓬々として兄の跡を趁(お)ひ、同じく社中に事を共にするに至る、蓋し又一箇の奇縁の繋がるものなしとせず。而して僅に三旬に充たざるの今日に、蚤(はや)くも袂を別つの余儀なきに至る、之を天命と云はんは余りに無造作すぎたるにあらずや。兄の齢少又壮、常に気を負ふて、塵外に超然たるは、斉(ひと)しく同人の推服する所に属す。余は実に兄の庸俗(ようぞく)に解嘲を意とせざるの量に敬す。兄の余に求むる所のもの或は絶無なるべし、而かも余の兄に求めんと欲する所のものに至ては、決して鮮少にあらざるなり。天下真に不遇の天才あるべし、自重して益々文運に資する所あれよ。敢て啄木兄の為めに贅す、点頭善と称するに未し乎。>
「辞めてやる」と自分から言い出したことに、おそらく啄木さんは後悔しながら、この文を読んでいたと、もりちゃんは思います。というのは、給与は支払われないままで、啄木さんの懐にはもう一銭もお金がなかったからです。啄木さんは、年の瀬になって家族とともにひもじい生活をせざるを得なくなっていたのです。啄木さんは、沢田氏の文を読み終えると、すっかり自分を責めるような気持ちになっていました。
そして、啄木さんは、重い鬱の気分で、次の紙面に目を遣ると、目を疑う記事を発見しました。なんと、あの岩泉江東までもが、啄木さんに向けて「最後の一言」という文と「聴追分」という漢詩を載せていたからです。啄木さんは、一層塞ぎ込んでしまいました。ああ、哀れな啄木さんですな。次の詩も、その時の思いを書いたのですかな?
負けたるも我にてありき
あらそひの因(もと)も我なりしと
今は思へり
投稿者 tuesday : 2009年02月11日 |