古賀政男から美空ひばりまで昭和歌謡の名曲を慰問演奏。音楽ボランティアグループ“おもひでチューズデー”


































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童謡、民謡、そして昭和歌謡への流れ(133) わすは、空飛ぶ鳥だったぺか・・・?

明治42年、3年ぶりに雨情さんは、故郷の北茨城の磯原に戻りました。


 空飛ぶ鳥


赤いはお寺の
百日紅
白いは畑の
蕎麦の花


空飛ぶ鳥ゆゑ
巣が恋し
別れし子ゆゑに
子が恋し


木瓜の花咲く
ふるさとの
国へ帰れば
皆恋し


太平洋の眩しい海原を眺めて息を吸い、白い砂浜から背後の低い山に眼を遣れば、緑の青さに心を癒し、雨情さんは両手を上げて大きく背を伸ばして、周りの自然を心から味わっていました。空を仰ぐと、そこには鳥が風に揺られて飛んでいました。久しぶりの故郷は本当に懐かしかったのでありましょう。雨情さんは、空飛ぶ鳥を自分になぞらえて、北の大地を放浪した月日を顧みて、この詩を書いたに違いありません。雨情さんは、故郷の自然に触れて、詩への創作意欲をたぎらせていたようであります。


「しがし・・・、詩を書くのだったら、この磯原にいたら駄目でやんす。やはり、東京で頑張んねえど、有名な詩人にはなんねえ」


雨情さんは、磯原に落ち着くことなく、時々東京に行っては、職探しをしたようでありますな。そして、明治43年(1910年)4月に、友人の紹介で「グラフィック」という所謂写真雑誌の編集記者として有楽社という出版社に入社したのであります。月給は30円だったそうで、その給料で家族を磯原から東京に呼んで住む場所を雨情さんは必死になって探したようであります。


「実に家探しは大変でやんした。妻のひろは、文句の多い女だがら、できるだげ文句を言わねえような場所を探しでやんねえど、まだ小樽と同じごどになっちまうがら・・・。千駄木、大久保、戸崎とあぢらごぢらを探し回ったよ。それで、掘り出し物をめっけだんだ。内幸町に広い二階建ての洋館をめっけだんだ。その屋敷は、ある貿易商の差押屋敷で、安く借りられだのさ。それで、妻のひろはご機嫌だったでやんす」


雨情さんは「グラフィック」に挿絵を載せている画家の望月桂という男と知り合いになりました。この望月さんは、雨情さんよりも5歳ほど若い青年で、長野の安曇野の出身で、東京美術学校西洋画科を卒業していて、池部鈞、藤田嗣治、岡本一平らと同期で、卒業後も親しく交遊していたそうで、「芸術は売り物にすべきではなく、美術愛好家や金持ちの占有物でもない」という信念を持って労働者中心の民衆美術運動を提唱していたのであります。この望月青年は、社会主義やアナーキストの歴史に名を残した人でもありまして、あの大杉栄とも一緒に本を著していました。雨情さんは、望月青年に大杉栄を紹介されたようであります。


「わすは、若い頃に会った小川芋銭先生、早稲田詩社の小川未明、そして啄木さんから、無政府主義や社会主義の話をよぐ聞いていたこどがあったがら、少しばかり興味をもっていだんで、望月青年が大杉先生を紹介しであげますっていうがら、尻尾さ振って、紹介しでもらって大杉先生に会ったんだ。とても優しい良い人だったなあ・・・。それから、わすに変な男がいづも尾行しでぎだんでやんす。望月青年に教えられで知ったんだども、その男は私服警察だっだんだなあ。警察に目を付けられっちまって、しばらぐ怖かった。ああ、ホントに怖かったでやんす。もう警察や留置所は御免でやんす。懲り懲りでやんす」



投稿者 tuesday : 2011年06月13日


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