古賀政男から美空ひばりまで昭和歌謡の名曲を慰問演奏。音楽ボランティアグループ“おもひでチューズデー”


































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「波浮の港」が流行した昭和3年とは? その⑨ 陸上の女王・人見絹枝!

もりちゃんは、昭和歌謡を語らずに、昭和3年に開催されたアムステルダム・オリンピックで活躍した人見絹枝さんを語っております。


彼女は、誰もが金メダルと期待していた100m走を準決勝で敗退してしまいました。絹枝さん、「このままでは日本に帰れない」と思い悩み、無謀にも彼女はそれまで走ったことがない800m走に出ることを決意したのであります。


彼女は800mに臨み、全力を出して、予選を通過しました。でも予選通過9人中8位で、決勝でメダルを狙うには、ちょっと難しい。ところがドッコイ、人見絹枝さん、決勝で、ドイツのバッチャウエル・ラートケという選手とゴール前で凄いデッドヒートを展開しました。


もう競技場の観衆は大騒ぎ!観衆の声が聞えてきそうですな。「あれは何処の誰だ!」「イエローモンキーだ!」「えっ?」「東洋人だ!」「中国人?」「ジャパニーズガールだ!」「えーっ、日本人!」「へーっ、ロシアを破ったあの日本ね?」「あれから二十数年経ちますなあ」「ところで日本って、何処にあるのだっけ?」「それにしても、彼女、スゴイじゃん!」と言ったかどうかは分かりませんが、それまで陸上競技は白人の競技でありまして、東洋人がドイツ人と競っているではありませんか!それはそれは大騒ぎとなったのです。結果は、残念ながら、わずかな差で2位となってしまいましたが、日本の人見絹枝の名は世界に広まったのでありました。


天性と頑張り屋の人見絹枝さん、このオリンピックに出場したとき21歳でありましたが、突然健康を害してしまい、昭和6年(1931年)8月2日に24才7ヶ月で亡くなっています。無理な練習をしたのでありましょうか?あまりにも短い生涯でありますな。絹枝さん、100m走の如く凄い勢いで駆け抜けていったという感じですな。


絹枝さんは、アイデアが豊かな人でもあったようです。甲子園の高校野球で勝ったチームがバックスクリーンに向かって校歌を歌うのや校名を書いたプラカードを持って選手入場をするのを提案したのが彼女らしいのです。もりちゃんの推測ですが、彼女は大正15年(1926年)に大阪毎日新聞の記者になっていたから、毎日新聞主催の甲子園の春の大会で提案したのでしょう!ホンマかいな。


日本にも逞しい女性が、男性に負けず登場した昭和の初めの物語をお話しました。では、また次回!今度はどんなお話でしょうか?乞うご期待!



投稿者 tuesday : 2006年05月06日


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